2014年5月31日土曜日

ろうそく祭り楽隊の山車


ろうそく祭りのパレードには、いろいろな山車が参加していた。
写真のものは、少年少女楽隊を乗せた山車だ。北タイの古典音楽を奏でながら、ゆっくりと山車は進む。
チェンラーイ、1997年。

2014年5月30日金曜日

ろうそく祭りの山車


7月の入安吾にあわせて、ろうそく祭りのパレードが行われた。山車にも、ろうそくを模った巨大な物(本体は不明)が設置されている。
3カ月後の出安吾まで、寺では僧侶が泊まりがけで修行する。
チェンラーイ、1997年。

2014年5月29日木曜日

ろうそく祭りのドラムメジャー


1997年には、チェンラーイでろうそく祭りに居合わせた。
やはりサーマキー高校のマーチングバンドが先導するが、この年のドラムメジャーはもちろん新顔だ。すらりとした美人であることに変わりはないが、歩く姿勢の美しさは際立っていた。
チェンラーイ、1997年。

2014年5月28日水曜日

ナイトバザールのテーブルクロス売り


1997年、チェンラーイのナイトバザールも、すっかり定着した感があった。
各露店も営業を続けていることから、赤字にならない程度には売れているのだろう。
チェンラーイ、1997年。

2014年5月27日火曜日

ローイクラトンパレードのドラムメジャー


ローイクラトンパレードは、サーマキー高校のブラスバンドが先導していた。チェンラーイ市内の行事では、大抵この学校のブラスバンドが参加するようだ。
この日のマーチングバンドを仕切る、ドラムメジャーを撮らせてもらったのがこの写真だ。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月26日月曜日

ローイクラトンの綺麗どころ


ローイクラトンのパレードにて。
山車に乗らずに、歩いてパレードに参加している女性も、もちろん美人揃いだった。車上の女性が「ミス学校」クラスなら、歩きの女性は「ミス学級」といったところだろうか。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月25日日曜日

ローイクラトン夜のパレード


灯篭を流した翌日、街ではパレードが行われた。
学校や企業、地区ごとに山車が用意され、それぞれの団体を代表する綺麗どころが、着飾って山車に乗る。
写真は、チェンラーイでも有名な進学校、サーマキー高校の山車だ。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月24日土曜日

ローイクラトン灯篭売り


ローイクラトンの夜、川辺に続く道沿いには、灯篭を売る露店がたくさん出ていた。
注意して見ると、灯篭売りは老人と子供が多いようだった。後に、タイ人にそのことを話すと、「弱い立場の人から買うことで、徳を積むことができるから」と説明された。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月23日金曜日

陰暦12月の満月の夜


陰暦12月の満月の夜、ローイクラトンのお祭りが行われる。雨期の終わり、川の水量も増し、川の女神に感謝を捧げるために、人びとは川に灯篭を流す。
お祭りが近づくと、街の有線放送では、軽快な「ローイクラトンの歌」がひっきりなしに流される。
写真は、チェンラーイのコック川に通じる遊歩道だ。街の賑やかさと、灯篭が流される川の厳かとも言える静かさの対比が印象的だった。昔ながらの風情がまだ残っていた1996年の チェンラーイで、ローイクラトン祭りを知ることができたことを幸運に思っている。
チェンラーイ、1996年。

ローイクラトンの歌
 12月の月が満ちる日 水も川岸まで満ちています
 私たち 男女とも皆 灯篭流しの日を楽しみ合います
 灯篭を流します 流します 灯篭を流します 流します
 一緒に灯篭を流したら 杯と共に あなたを踊りに誘います
 灯篭流しの日の踊り 灯篭流しの日の踊り
 功徳は私たちに 心の幸せを授けます
 功徳は私たちに 心の幸せを授けます (Wansuk訳)

2014年5月22日木曜日

子連れ仕事は当たり前


チェンラーイハンドクラフトセンターにて。
仕事場に子供を連れてくるのは、タイではごく当たり前のように見掛ける。周りの大人も別段気に掛ける様子もないし、子供の方も邪魔するでもなく親の仕事を大人しく見守っていることが多い。
「託児施設がないと・・・」などという言葉が、莫迦らしく思えてくる。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月21日水曜日

ハンドクラフトセンターにて


チェンラーイ市街から北へ向かう国道沿いに、ハンドクラフトセンターができていた。
ここでは、工芸品作製の実演が見学できるほか、展示販売もされている。このときは、まだ知れ渡っていないためか、見物客は他に見当たらなかった。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月20日火曜日

北タイ伝統服の売り子


チェンラーイナイトバザールで、北タイ伝統衣装を売っていた売り子。
自らも山岳民族風の衣装を着ている。インド系の血をひいているのか、エキゾチックな顔立ちが印象的だった。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月19日月曜日

新しい生ビール


この写真は、チェンラーイのナイトバザール、現在のステージの辺りから撮ったものだ。
一番目立つ所に、カールスバーグの看板が設置されている。看板には、「新しい生ビール」と書かれている。
今でこそ生ビ-ルはタイでもごく普通に飲まれているが、一般的に浸透し始めたのは、この1996年ごろからだったような気がする。
試しに頼んでみたら、グラスの上までビールが注がれ(泡が全くなく)、面食らった覚えがある。訊くと、「泡を入れたら失礼でしょ」との答えだった。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月18日日曜日

アイスキャンディ売りが来た


暑季のメーサーイは、とても暑くなる。暑いときには冷たいものを。
台車を曳いたアイスキャンディ売りが現れると、とたんに子供たちが群がってくる。ボーダーで仕事中の写真少女も、稼ぎを握りしめてとんできた。
メーサーイ、1996年。

2014年5月17日土曜日

メーサーイプラザゲストハウスよりタチレクを望む


メーサーイの川沿いには、いくつかのゲストハウスが並んでいた。なかでもメーサーイプラザゲストハウスは、山の斜面にバンガローが点在していることから居心地が良く、長期滞在者も圧倒的に多かった。
写真の手前の川が国境だ。その先にひろがる街並みは、もう隣国ミャンマーになる。
メーサーイ、1996年。

2014年5月16日金曜日

スクニランホテルの廊下


初めてチェンラーイに来たときは、訳も分からず、バスターミナル近くのウィアンインホテルに泊まった。当時、街一番の高級ホテルだったが、哀れな日本人旅行者に、階段下の従業員用三角部屋を特別提供してくれた。
翌日、同経営のスクニランホテルを紹介され、そちらに移ると、これが居心地の良いホテルで、親切な従業員が自転車まで貸してくれ、すっかりチェンラーイの街に嵌ってしまうことになった。
写真は通い始めて4年目ごろ、上の部屋ほど安くなるので、最上階の西側に泊まることが多かった。
スクニランホテルは、メーコックビラとともに、チェンラーイでの懐かしい定宿だ。
チェンラーイ、1986年。

2014年5月15日木曜日

カールスバーグが20バーツ


チェンラーイナイトバザールに遊びに行くと、何となくビールを飲んでしまうことが多かった。当時愛飲していたのは、カールスバーグというビールだ。理由は簡単、20バーツ(当時約80円)と安いからだ。
それまでビールといえば、シンハーが圧倒的シェアを誇っていたが、それに待ったをかけたのが、このカールスバーグだ。シンハーより軽い口当たりでシェアを伸ばしたが、値段の安さも大きな魅力だったろう。
1995年のこの年、ビアタイ社がカールスバーグと提携して、ビアチャーンを発売することになる。
チェンラーイ、1995年。

2014年5月14日水曜日

ナイトバザールの腰巻売り


チェンラーイのナイトバザールには、地元の人も普通に買い物に来ていた。
どんな物を買っていくのか観察していると、例えばこの腰巻などは売れ筋のようだった。山岳民族風の刺繍がほどこされていて、普通の腰巻よりもお洒落に見える。市場と大して変わらない値段なら、遊びがてらに来た地元の人にも受けるはずだ。
チェンラーイ、1995年。

2014年5月13日火曜日

噂の女性の評価は


ゲストハウスに長居をしていると、ちょっとした出来事が、さも大事件のように広まってしまうことがある。
これが恋愛にまつわる話題だったりすると、尚更のことだ。例えば、「○○さんのお気に入りが、あの店にいるらしい」などという噂を聞き付ければ、皆でぞろぞろと品定めに出かけて行ったりすることになる。
この夜の目当ては、さる喫茶店のウエイトレスだ。雰囲気から来意を悟られたらしく、あいにくターゲットの女性は顔を隠してしまった。
立ち会った4人の評価は、5段階で4という結論だった。
チェンラーイ、1993年。

2014年5月12日月曜日

ウボンラーチャターニー駅前


ウボンラーチャターニーの駅を出ると、すぐに目に入ったのがこのSLの車両だ。
その後、鉄道駅を利用することも多くなり、主要な駅前には大抵SLが置かれていることに気がつくようになった。
ウボンラーチャターニー、1991年。

2014年5月11日日曜日

ステーションホテルの部屋


当時のバンコクでは、ステーションホテルを定宿にしていた。この宿は、ホテルというより、漢字で集成旅社と書くほうが相応しい。
カーテンを見て分かる通り、決して清潔とは言えず、古びて怪しげな雰囲気さえ漂っていた。ところが慣れてくると、そんなことは気にならず、広くて通風も良く、それなりに快適に過ごせてしまうようになるから不思議だ。
何より駅前で移動は楽。中華街にも侵入しやすく、夜はソムタム屋台も出没してくれるのだ。
(ビデオから切り取ったので、画像が荒れてしまいました)
バンコク、1987年。

2014年5月10日土曜日

ホーナリカーレストランにて


当時のチェンラーイでは、夜に営業するレストラン(食堂より規模が大きいという意味で)といえば、時計塔の西にあったここ、ホーナリカーという店くらいしかなかっただろう。
店は簡易な囲いに仕切られているだけで、半屋外の、オープンな造りだった。風通しは良く、蚊もたくさん侵入してくる。客がテーブルにつくと、足下には蚊取り線香が置かれ、ロープに吊り下げられた扇風機が回り出す。
テーブルには、氷ったグラスと、シンハ-ビールが置かれている。
チェンラーイ、1985年。

2014年5月9日金曜日

ノーンカーイ船着き場の食堂から


ノーンカーイ滞在中は、殆ど毎日ここで昼食を食べていた。川べりに席をとって、メコンを渡る風に吹かれていると、もう最高の気分だ。
客は誰もいない日が多かった。おかげで、いくら粘っていても大丈夫。
左手にある船乗り場を眺めたり、持参した本を読み耽ったり、ゆったりと流れ行く時間に身を委ねていた日々だった。
ノーンカーイ、1983年。

2014年5月8日木曜日

最後の写真少女たち


1980年代半ばから、メーサーイボーダー付近を彩ってくれた写真少女たち。実は1996年のこの頃が、人数は一番多かったのではないかと思う。そして低年齢化も進んで、ローティーン中心、あるいは10歳前後の子も多く混じっていた。
そして、最盛期のこの年を最後に、彼女たちの姿は全く見られなくなった。知り合いの日本人の話では、少女売春を連想させるので禁止になった、とのことだった。
メーサーイ、1996年。

2014年5月7日水曜日

暇な時間は水遊び


暑季真っただ中、内陸のメーサーイは、凄まじい暑さに襲われる。ボーダーを訪れる観光客も少なく、時間を持て余した写真少女たちが、国境の橋の下で水遊びに興じていた。
着飾っていた衣装を脱ぎすて、無邪気に遊ぶ姿は、やっぱり普通の子供たちと変わりない。
メーサーイ、1996年。

2014年5月6日火曜日

ナイトバザールの織物売り


チェンラーイナイトバザールで見掛けた、織物売りの娘さん。
写真を撮りながら、誰かに似ているなあと。定宿のメーコックビラに戻って、1970年代の日本のポップスを聴いて思いだした。南沙織さんに似ている。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月5日月曜日

ナイトバザールの造花売り


チェンラーイナイトバザールのステージ正面奥には、長屋形式の売り場も設置されていた。
こちらは場所代も高額になるので、衣料品やお茶など、資金が必要になる店が目立った。売り子の身形も現代風だ。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月4日日曜日

ナイトバザールの小物売り


この頃から、チェンラーイナイトバザールも、それらしいものに整備されてきていた。
それでも、店は地べたに茣蓙を敷いただけの簡素なものが多く、 商品も手作りの小物などが多かった。
チェンラーイ、1996年。

2014年5月3日土曜日

タイ・ビルマ橋


1995年12月。メーサーイはとても寒かった。ビルマ側の山から吹き下ろす風が冷たく、路上では凍死者もでているようだった。メーサーイ長期滞在の日本人の間で、ビルマから吹く風のことは「ビルマ下ろし」と呼ばれた。12月のビルマ下ろしは厳しい。
国境の橋の名前を何と呼ぶのか、地元のタイ人に訊いてみた。「タイ・ビルマ橋」と教えられたが、対岸では「ビルマ・タイ橋」と呼ぶのかもしれない。
橋のたもとには、「日立の木」 として知られるモンキーポッドの木が見える。その左手の建物には、免税店が入っている。
メーサーイ、1995年。

2014年5月2日金曜日

売れっ子写真少女


1996年3月にメーサーイのボーダーを訪れてみたら、写真少女たちのなかに懐かしい顔を発見した。
モデルの需要が飛びきり多かった、かつての売れっ子だが、しばらく見ないので、引退したと思っていた。案の定、一時辞めていたのだが、最近復職したと言う。
もちろん、詳しい事情を訊くようなことはしなかった。
メーサーイ、1996年。

2014年5月1日木曜日

プノンペンを去る


プノンペンを訪れたのは1995年の雨期、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が去った約一年後のことだった。
長い内戦を経て、1991年パリ和平協定が結ばれ、1993年民主選挙、カンボジア王国として新たな時代が始まったばかり。賑わいと混乱が、まだごちゃ混ぜの時期だった。
その後、カンボジアを訪れる機会は、今のところない。
プノンペン、1995年。