1983年のことだった。
昼食を食べるために、小さな食堂に入った。間口4mの、地元民のための、本当に小さな食堂だ。
席に着くと、店を手伝っているらしい欧米人の若者が水を出してくれた。
僕のような客が珍しかったようで、
「何方から?」
「日本だよ」
「旅行かな?」
「そう。君は?」
「イギリスから旅に出たんだ。インドに行って、タイに来た。タイが気に入って、チェンマイまで来たんだけど」
「チェンマイは良い町だよね」
先の話を促すと、
「パスポートを…捨ててしまったんだ」
旅人にとっては、パスポートは最貴重品だ。
「ビザが切れる頃だった」
「何故?」
聞いてしまってから、あまり立ち入ったことは失礼か、と思ったがすでに遅かった。
彼は答えずに、厨房の方に目をやった。そこには、笑みを浮かべた、小柄なタイ人の娘さんがいる。
「僕は学生だったんだよ」
ちょっと俯いて、話を続けてくれた。
「親には手紙を書いた」
手紙の内容は、簡単に想像できる。
「返事は?」
彼は俯いたまま、首を振った。
もう一度娘さんに視線を向けて、こちらに向き直ると、
「この国で生きていくことにしたんだよ、彼女と」
驚き、感心、おせっかいな心配などの気持ちが渦巻いて、その時に注文したスープ麺の味は、全く覚えていない。
「Good luck」
彼女にも、
「チョーク・ディー」
挨拶して店を出るとき、二人揃って、笑顔で見送ってくれた。
翌年、同じ場所を訪ねると、店はシャッターが閉められていた。営業している様子はない。
隣の店に聞くと、ちょっと前に閉店して出て行ったと言う。
その時の様子を聞いても、
「いつの間にか居なくなってたからねえ」
きっと商売が上手くいって、もっと大きな店に引っ越したのだろう、と思うことにした。