2022年4月28日木曜日

パスポートを捨てた旅人

(画像と本文は関係ありません)

1983年のことだった。

昼食を食べるために、小さな食堂に入った。間口4mの、地元民のための、本当に小さな食堂だ。

席に着くと、店を手伝っているらしい欧米人の若者が水を出してくれた。

僕のような客が珍しかったようで、

「何方から?」

「日本だよ」

「旅行かな?」

「そう。君は?」

「イギリスから旅に出たんだ。インドに行って、タイに来た。タイが気に入って、チェンマイまで来たんだけど」

「チェンマイは良い町だよね」

先の話を促すと、

「パスポートを…捨ててしまったんだ」

旅人にとっては、パスポートは最貴重品だ。

「ビザが切れる頃だった」

「何故?」

聞いてしまってから、あまり立ち入ったことは失礼か、と思ったがすでに遅かった。

彼は答えずに、厨房の方に目をやった。そこには、笑みを浮かべた、小柄なタイ人の娘さんがいる。

「僕は学生だったんだよ」

ちょっと俯いて、話を続けてくれた。

「親には手紙を書いた」

手紙の内容は、簡単に想像できる。

「返事は?」

彼は俯いたまま、首を振った。

もう一度娘さんに視線を向けて、こちらに向き直ると、

「この国で生きていくことにしたんだよ、彼女と」

驚き、感心、おせっかいな心配などの気持ちが渦巻いて、その時に注文したスープ麺の味は、全く覚えていない。

「Good luck」

彼女にも、

「チョーク・ディー」

挨拶して店を出るとき、二人揃って、笑顔で見送ってくれた。

翌年、同じ場所を訪ねると、店はシャッターが閉められていた。営業している様子はない。

隣の店に聞くと、ちょっと前に閉店して出て行ったと言う。

その時の様子を聞いても、

「いつの間にか居なくなってたからねえ」

きっと商売が上手くいって、もっと大きな店に引っ越したのだろう、と思うことにした。