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2022年7月17日日曜日

昔ボラれた食堂の店主



街の中心にある老舗の料理店「ムアントーン」の先代店主。初めてチェンラーイを訪れたときに入った店でもある。
その時はやけに高いなあと感じた。ボラれた、と言うやつだ。
後に縁あって親しくしていただき、当時のことを話すと、
「それは、旅行者価格よ、アッハッハ」
と笑い飛ばされてしまった。
親しくなってからは、逆に、一度も代金を受け取ってくれなかった。
カーンチャナブリーの出身で、ムアントーンはチェンラーイの最古参食堂でもある。同郷のよしみで、この食堂で修行し、開業して成功したカーンチャナブリー出身者も何人か知っている。後輩の面倒見も良いのだろう。
この写真を撮らせていただいた数年後に他界されている。
チェンラーイ、2013年。

2022年4月29日金曜日

ナイトバザールの恋


当時僕が滞在していた定宿に、やはり常連客の日本人がいた。彼もタイが好きで、毎年数ヶ月を北タイで過ごしていた。

タイ語は殆どできなかったが、いつも笑顔でいるので、現地の人からは「ケンちゃん」と呼ばれて慕われていた。タイ人は、いつも機嫌良く振る舞う人を好む。

ケンちゃんと僕がよく通う食堂では、ヌンちゃんという若い女性が働いていた。彼女は離婚歴があり、まだ幼い二人の子持ちでもあった。

二人の様子から、ともに好意を抱いているのは良く伝わってきた。

ある日、ヌンちゃんから恋の橋渡しを頼まれることになった。作戦はこうだ。僕がケンちゃんを誘ってナイトバザールに遊びに行く。ヌンちゃんも偶然(ここが大事)そこに居合わせる。3人で食事をした後、僕がさりげなく席を外す。

そして当日、事は順調に進んだ。

翌日、早速ヌンちゃんから報告を受けた。こんなやり取りがあったと言う。

「ケンちゃんは、ヌンの息子のことを愛するか?」

「うん、愛する」

「ケンちゃんは、ヌンの娘のことを愛するか?」

「うん、愛する」

「ケンちゃんは・・・(ちょっと間を置いて)ヌンのことを愛するか?」

「うん・・・愛する」

二人は見つめ合いながら、しっかりと手を握り合ったそうだ。ちなみに、二人の年の差は、二まわり以上だった筈だ。

恋の橋渡し役を務めた僕は、特にヌンちゃんに感謝された。

その数ヶ月後、ケンちゃんとヌンちゃんは、タイ式の結婚式を挙げて、隣の県に引っ越していった。


2022年4月28日木曜日

パスポートを捨てた旅人

(画像と本文は関係ありません)

1983年のことだった。

昼食を食べるために、小さな食堂に入った。間口4mの、地元民のための、本当に小さな食堂だ。

席に着くと、店を手伝っているらしい欧米人の若者が水を出してくれた。

僕のような客が珍しかったようで、

「何方から?」

「日本だよ」

「旅行かな?」

「そう。君は?」

「イギリスから旅に出たんだ。インドに行って、タイに来た。タイが気に入って、チェンマイまで来たんだけど」

「チェンマイは良い町だよね」

先の話を促すと、

「パスポートを…捨ててしまったんだ」

旅人にとっては、パスポートは最貴重品だ。

「ビザが切れる頃だった」

「何故?」

聞いてしまってから、あまり立ち入ったことは失礼か、と思ったがすでに遅かった。

彼は答えずに、厨房の方に目をやった。そこには、笑みを浮かべた、小柄なタイ人の娘さんがいる。

「僕は学生だったんだよ」

ちょっと俯いて、話を続けてくれた。

「親には手紙を書いた」

手紙の内容は、簡単に想像できる。

「返事は?」

彼は俯いたまま、首を振った。

もう一度娘さんに視線を向けて、こちらに向き直ると、

「この国で生きていくことにしたんだよ、彼女と」

驚き、感心、おせっかいな心配などの気持ちが渦巻いて、その時に注文したスープ麺の味は、全く覚えていない。

「Good luck」

彼女にも、

「チョーク・ディー」

挨拶して店を出るとき、二人揃って、笑顔で見送ってくれた。

翌年、同じ場所を訪ねると、店はシャッターが閉められていた。営業している様子はない。

隣の店に聞くと、ちょっと前に閉店して出て行ったと言う。

その時の様子を聞いても、

「いつの間にか居なくなってたからねえ」

きっと商売が上手くいって、もっと大きな店に引っ越したのだろう、と思うことにした。


2021年8月30日月曜日

メーコックヴィラ 我が部屋


 メーコックヴィラに長く滞在するときは、右手長屋の一番手前C19という部屋を選んでいた。角部屋が落ち着くのと、自然光が入りやすく、風通しも良いという理由からだった。

生活用品は、殆ど宿に預かってもらっていた。この写真に写っている物ほぼ全てと、外に置いてある自転車だ。

ラジカセでは、日本の短波放送を聴いたり、カセットテープでお気に入りの音楽を流したり。もちろん現地のFM放送も受信できる。その隣にあるのは、PAL方式の小型テレビだ。タイのテレビを視聴するために、秋葉原の免税店で買い込んできたものだ(ちなみにパスポートを提示したら一時帰国中と認められ、免税価格で買うことができた)。これでタイ語のヒアリング能力を高めようと思ったが、効果はあまり感じられなかった。そんなに甘いものではない。

左の木箱には貴重品が入っている。その隣が食材置き場。水を張ったボトルに足を入れてあるのは、アリの侵入を防ぐためだ。この部屋では、蚊とアリとの戦いだったなあ。

三段の棚には、着替えと本の類いが収納されている。

2001年まで、この部屋で毎年数ヶ月を過ごしたが、時間の過ぎ方はいつも不思議に感じられた。1日1日は、とてもゆっくりと感じられる。ところが、あっという間に一週間が経ち、1ヶ月が過ぎ、気が付くと帰国の日が迫っているのだ。1日の長さと1ヶ月の短さ。

短期で、あるいは長期で、利用した宿は数あれど、この部屋での生活が最高のものであったことは間違いない。

2001年、チェンラーイ。

2021年8月17日火曜日

チェンラーイの市場食堂街


チェンラーイ第一公設生鮮市場の食堂街。
ガラスケースが幾つかあるが、これが各食堂の食材入れ。
そこを中心に、折り畳みテーブル数卓分がその食堂のエリアになる。
公設なので場所代は役所に払うが、当時月に2000円弱だったと記憶する。
一番手前に見える赤いテーブルが、僕が関わっていた食堂になる。白シャツの男性は、隣の食堂の主人だ。
我が店は、この市場では一二を争う人気店で、常連客も多かった。

或る日、僕が店に出ていると、一人の日本人女性が席に着いた。水を出して、メニュー(自作のタイ語、英語、日本語併記のもの)を見せながら、
「水は無料です。食事は何がよろしいですか?」
すると、ちょっと驚いた顔で、
「日本語がお上手ですね」
「日本人なんですよ」
まさかこんな所に日本人がいるとは思わなかったとのこと。
この街の情報など、分かる範囲で助言させてもらった。

秋篠宮殿下が、市場見学に来られたこともあった。御付きの人を従えて、自ら先頭になって、食堂街も一回り。
近くに来られたので、
「こんにちは」
と挨拶すると、怪訝な表情をされていた。
やはり、日本語が出来る現地の人と思われたのかもしれない。
2003年、チェンラーイ。

2021年2月10日水曜日

プッのつもりがピュッとなった

少々ばっちい話になります。

1990年頃だったろうか、バンコクからチェンマイに向かう機中、隣席の欧米人と少し話をした。彼もタイのリピーターで、話題は食べ物のことに。

「食事は美味しいんだけど、下痢することが多くてね。君はどう?」

と聞かれたので、

「私はほとんどないですよ。全くということはないけど、日本にいる時と同じくらいかな」

「一週間にどれくらい?」更に追求された。

「一種間くらいなら全然ないですね」

「それは素晴らしい!」信じられない、という表情で僕を見てくる。ちょっと誇らしく感じて、無意識のうちに、少し胸を張っていたかもしれない。

その時は二週間ほどの滞在だったろうか。旅の最後に贅沢をしようと、チェンマイの食堂でトムヤムクンを食べた。北タイでは、普通は川エビを使うのが、その店のトムヤムには海エビが入っていた。ちょっと臭い。古いエビかもしれないと思いながらも、気にせずに食べてしまった。

その晩から、来た! もうトイレとベッドの往復だ。それでも移動しなければいけない。ゆるい腹を抱えて、バンコクへ移動、駅前のステーションホテルに転がり込んだ。

チェックイン時、馴染みのフロントが、

「どうした?」

「下痢がひどくて」

「熱いお茶を飲みな。水分を取らないとダメだよ」

部屋に入ると、すぐにポットに入った烏龍茶が届いた。持って来てくれたのは、客に”色々なサービス”をしてくれる若い女性だ。当時、バンコクの旅社には、その手の女性が住み着いている事が多かった。

ポットのお茶を飲んで休んでいると、少しずつ腹が落ち着いてきた。食欲も出て来て、腸がグルグルと活動を始めたのが感じられる。そして、放屁したくなってきた。ガスを出せば、更に気分が良くなりそうだ。ちょっとお腹に力を入れて、プッと出すつもりが・・・「ピュッ」情けないことに、”実”が出てしまった。

幸いシーツを汚すことはなかったけれど、パンツを一枚捨てる羽目に。

シャワーを浴びながら思い出したのは、飛行機で隣に座った欧米人のことだ。ちょっとばかしのことで、誇らしく感じた罰だろうか。


2021年1月16日土曜日

水浴びショー見物に行くも


 話は、チェンラーイに、この金ピカ時計塔ができるずっと前のことになる。1993年頃だったか、とにかく乾季(寒季)のことだった。

メーコックビラには、僕の他に、Wさんという日本人が泊まっていた。彼は飄々とした好人物で、滞在時期が重なると、よく行動を共にする仲だった。そのWさんが、或る日、

「チェンライパッポンで水浴びショーをやってますよ」

チェンライパッポンとは、時計塔近くの脇道にあるバー街のことだ。山からの出稼ぎの娘が多く、もちろん本場のバンコクパッポンほどの派手さはない。

「水浴びって言っても、どうせ水着でも着てるんでしょう?」

「いやいや…」

「まさか、スッポンポンですか?!」

Wさんは答えずに、ニヤニヤ笑っている。

それでは、ということで、その晩にいざ出陣と相成った。スッポンポンよ、待っていろ。

ショータイムに合わせて、目的の店に突入する。

店内には、10人ほどのホステスがいる。何れも10代後半だろうか。そして、確かに、店の奥にはガラス張りシャワー室が用意されている。僕たちの席は、このシャワー室の近く、かぶり付きの特等席だ。もうすぐ、この妙齢さんたちのスッポンポンが見れるぞ。

ところが、ところが、一向にその気配が感じられない。

「Wさん、まだですかね?」

彼は「う〜ん」と唸って、腕組みをしたままだ。

たまらずに、店を仕切っているお姉さんに聞いてみた。

「水浴びショーは何時から?」

「今日はないのよ。寒いからね」

あっさりと言われてしまった。

後日談。

改めて出掛けた日、確かに水浴びショーはやられていた。他に、火の付いたロウソクから垂れるロウを身体で受け止めるロウソクショーなどというものも、見物することができた。

そして現在は、チェンライパッポンと呼ばれたこの地域は大きく様変わり。もちろん、全くその手の店はなくなってしまった。

2020年7月7日火曜日

街一番のスイーツの店〜香港からの旅人

ココナッツミルクをかけたデザート

1983年のことだったと思う。
チェンラーイの街を散策していると、アジア系の旅人に声を掛けられた。
「この本に載っている、街一番のスイーツの店を探しているんだけど…」
彼の手にしたロンリープラネットのガイドブックには、地図もあった。
「この店らしいんだけど、それにしてはちょっと貧弱なんだよ」
言いながら、旅人は両手を軽く広げて、苦笑している。
確かに該当する場所には店はある。間口4メートル、主に麺を食べさせる店だ。とてもじゃないが、街一番のスイーツの店には見えない。
でも良く見ると、店の片隅には、ココナッツミルクの甘味も用意されている。麺を注文した客が、食後のデザートとして食べるのだろう。
結局、この店に間違いなかろうと、誘われるまま二人で入店。折り畳みテーブルと丸椅子の席に着いた。
街一番のスイーツは、果物と寒天にココナッツミルクを掛けた、普通に市場でも食べられるようなものだった。
その旅人は、香港から来たと言う。ほぼ同年齢ということもあって話しが合い、旅の情報交換や自国の話題などで盛り上がった。スイーツはともかく、こんなひと時が旅の醍醐味でもある。
香港が大変な今、彼は何処にいて、どんなことを考えているだろうか。
(画像は本文とは関係ありません)

2017年12月28日木曜日

くつろぐイヌ


タイでは、このような格好でいるイヌをよく見掛ける。両足を伸ばして、まるで人が俯せに寝ているようだ。
何故こんな格好でくつろぐのか、昔読んだタイ関連の本によると、お腹を冷やすためだという。なるほどこうすれば、お腹はベッタリと地面について、少しは冷却効果があるかもしれない。
でも車道でくつろいでいるイヌを見る度、車が来たら素早く逃げることができるのかしらん、と心配してしまう。

2017年12月23日土曜日

喉に効く薬ボータン


乾季の北タイは喉に厳しい。ほとんど雨が降らないため空気が異常に乾燥するのだが、本来禁止されているはずの野焼きによる大気汚染、更には近年ではチャイナから飛んでくるPM2.5とかいう汚染物質の影響もある。
そこで喉に優しい薬が欲しくなってくるのだが、喉薬というと先ずタイ人に勧められるのがこの「ボータン」だ。
紙パックに封入されている焦茶色の薄い板状の薬は、一見チョコレートのようにも見える。これを少しずつ割って口に含むのだが、漢方の香りが喉に心地よく感じられる。よく旅行者が買い求める喉飴のような甘さがないのが嬉しく、繰り返し舐めていても実に爽快だ。
粒状にされたボータンも売られているが、お勧めは断然こちら、昔ながらのものだ。量を調整できるし、だいいち割安だ。

2015年3月27日金曜日

踏切に列車が来る


バンコク市内の路線バスに乗っていたときのこと。
踏切の前後が渋滞していたら、バスに限らず車は踏切手前で待つのが当然でしょう。それをバスの運ちゃん、前に詰めてしまったのだ。まあ列車など殆ど来ないので、いつもそのようにしていたのかもしれない。ちょうど線路の真上で停車。
ところが、想定外のことは意外と頻発するもので、しばらくして来ない筈の列車の到来を告げる音が。さすがに車中全員ざわめき立った。
運ちゃんが窓から叫ぶ。勿論、僕も反射的に扉近くまで移動、いつでも飛び降りる準備に入っていた。機転を利かせた車掌が飛び降りて、前の車を少しずつ移動させ、危機一髪、バスも乗客も難を逃れることができた。
踏切を見る度に、 未だにこの体験が想い出される。

2014年11月28日金曜日

カセットテープ屋台の想い出


もう20年以上も前のことだ。
パッポン通りの北側、スリウォン通りに、カセットテープを並べた屋台が出ていた。品揃えが豊富なことと、まとめ買いだと値引いてくれるので、よくその店で買い物をした。
ある日、そのカセットテープ屋で、さて何を買おうか物色していると、たどたどしい日本語で声を掛けられた。
「すみません、“雨”という歌が欲しいです。日本の歌です」
同僚の間でこの歌がとても評判が良く、是非カセットテープで練習したいのだと言う。日本の歌は日本語で表記されている。それを読めないタイ人なら、目指す曲を見つけるのはとうてい無理な話だ。
若い女性の頼みとあって、カセットテープの山から一生懸命探しだしたのが、森高千里の“雨”だった。
そのことがきっかけで、誘われるまま近くのカラオケバーに入った。彼女は日本人向けカラオケバーに勤めるホステスだったのだ。
店のカラオケで聴いた彼女の歌う“雨”は、お世辞にも上手いとは言えなかった。
その後、店を再訪する機会はなかったので、カセットテープでの練習の成果が如何なものになったのか、知る由もない。

2014年11月19日水曜日

ハウマッチおじさん現る


メーコックビラに日本人が僕しか滞在していなかったときに、そのおじさんはチェックインしてきた。
チェンラーイは初めてということで、いろいろ街の様子を訊かれたので、ひと通り説明すると、ちょっと遠慮勝ちに、
「あのぅ、夜の遊びはどんなもんでしょうか? つまり・・・女の子なんですけど」
更に話を聞くと、どうやらチェンラーイでは若い女の子と遊び放題だ、との情報をどこかで仕込まれてきたらしいことが窺えた。
時計塔近くに小さなバー街(チェンラーイパッポンとか呼ばれていた)があることを教えると、
「今夜行きましょう。ビールの1杯くらい奢りますから」
と誘われる羽目になった。
因みに、こういう店での遊び方は、店内でビールを頼み、好みの女の子にドリンクを奢り、デートを誘いかける、というシステムらしい。
このおじさん、そうとう気合が入っているようで、だいぶ早い時間の出撃とあいなった。そんなに焦っても…。案の定時間が早過ぎて、女の子はまだ外でお喋りに興じている。もちろん店内には、まだ客もいない。
気合十分のおじさんは、外に座っている一人の女の子の前に立ちはだかると、いきなり、
「How much?」
女の子は怪訝そうに、ドリンク代の説明をする。するとおじさんは、
「No. You, How much?」
いきなりストレートな誘いに、女の子もたじたじの様子。おじさん、そんな反応にも臆せず、たたみかけるように、
「You, How much?」
ああ、この後のことは、あまり思い出したくない。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月9日日曜日

Big-Cエスカレーターの前で


チェンラーイのBig-Cといえば、忘れられない思い出がある。開店直後、エスカレータの前での、ちょっとした出来事だ。
チェンラーイの郊外に、このBig-Cが大々的にオープンすることになったのは、1990年代も後半のことだった。Big-C開店は、地元では大ニュースになった。何しろ当時のチェンラーイでは、買い物といえば市場ですませるのが常識。それまでも、デパートらしきものが無かったわけではない。しかし街の中心にある2軒ほどのそれはとても小さく、Big-Cなどという大規模店は市民にとっては別世界の存在だったからだ。
開店の日、早速出かけてみると、さすが地方都市。バンコクなどの都会のBigCと比べると、明らかに客層が垢抜けていない。市場に野菜を買いに行くような気分で来ている人ばかり。しかも広い店内はまだガラーンとしている。
二階に上がるために、エスカレーターの方へ行くと人だかりができている。エスカレーターは動いているのに、誰も乗っていない。いったいどうしたのかと思いながら最前列へ。
エスカレーターのステップの前には、いかにもさっきまで農作業をしていましたという風情の、中・熟年女性が数人、照れ笑いを浮かべながら佇んでいる。お互いに顔を見合せながら先を譲り合っている様子。納得した。エスカレーターを前にして、第一歩を踏み出す勇気がないのだ。後続の人達も、どうやら腰が引けているようで、誰も前にしゃしゃり出ようとはしない。
「足を乗せれば良さそうだけど、動いているし怖いな。失敗して転んだらみっともないし・・・」
この街で初めて見るエスカレーターを前にして、内心こんな風に考えていたのだろう。
結局エスカレーターベテランの日本人が先頭に出て、見本を示す羽目になってしまった。すると、その後に続いて、皆さんそれに倣い、まるで小さい子供がするように、ぴょんと跳び乗っていた。
上手く乗ることができて、ちょっと誇らしげな表情を見ていると、こちらまで嬉しい気分になってしまったものだ。

2014年10月24日金曜日

捨てられていったバナナ


メーコックビラの庭の一角には果樹が植えられていて、収穫物は常連客に振舞われた。旅人は熟していく果実を見やりながら、あと何日で食べられるか、もう少しチェックアウ トを延ばそうか、などと言い合ったものだ。あるときは経営者の奥さんが、あるときは使用人のおばさんが、何も言わずに部屋の前のテーブルに置いていってくれる。
ある日、チェックインしたばかりの日本人の女性グループが、僕のテーブルのバナナを見ている。「ここで採れたものです、よかったらどうぞ」と言うと、一房すべて持って行ってしまった。日本では、採れたてのバナナを食べる機会など、めったにないのだろう。
翌日の昼、部屋掃除を終えた使用人のおばさんが、僕に昨日のバナナを見せる。チェックアウトした部屋のゴミ箱に捨てられていたそうで、少しゴミも付いているようだ。おばさんは「勿体無い」と言う。一房10本以上あるのに、食べたあとは2本だけ。おばさんの寂しそうな目を見ながら、僕は黙ってバナナを受け取った。
食べきれる分だけ持っていけばいいのに、と最初は腹が立ったが、いやいや、もしかすると予定を変更して、早めにチェックアウトしたのかもしれない、と思い直すことにした。それならば、部屋に残されていても仕方ないだろう。旅人にとっての予定は、未定でしかないのが常。
捨てられたバナナは、翌日までに完食した。 使用人のおばさんは、いつもと変わらず、今度はパパイヤを届けてくれた。
チェンラーイ、2000年。

2014年6月22日日曜日

1日遅れのインド航空


過去に利用したタイ行き格安航空券は、パキスタン航空、エジプト航空、トルコ航空、フィリピン航空、インド航空、ビーマンバングラデシュ航空等など。その中で、利用回数が一番多いのはインド航空だ。
成田を昼に出発して、時間どおりならバンコク着は夕方になり便利だったのと、何より格安だった。機内食でカ レーが食べられるというのも魅力のひとつ。搭乗回数をパスポートで調べてみたら、確認できただけで50回ほどもあった。

インド航空もトラブルの多い航空会社だった。印象深いのは、成田での1日遅れ(ちなみにバンコクでの遅れは珍しくなく1日どころか3日遅れまで経験している)。
それは、1990年代半ばのことだった。
インド航空の職員が、成田発は明日になること、空港内のホテルに個室で部屋をとること、食事は用意することなどを説明している。僕にとっては、成田のホテルに泊まることなど滅多にできない経験なので、かえってワクワクしてしまったほどだ。ところが、短期で行く人たちにとっては大問題のようで、何人かが職員に食い下がっている。なかでも、ゴルフズボンに白いベルトの中年男性の剣幕は、他の人を圧倒していた。
「3泊しかないのに1泊減っちゃうじゃないか」
短期間の旅行のようだ。
「1泊分どうしてくれるんだ、イッパク分!」
1泊によほど価値があるのだろう。
職員は平身低頭。男性は更に勢いづいて、
「空港には出迎えが来てるんだ。どうしてくれる!」
「それではドンムアン空港にアナウンスを流します。お迎えの方のお名前を?」
男性はちょと気まずそうに、小声で、
「レックだ・・・」
タイでは、レックなんて呼び名はいっぱいある。空港で、「レック様・・・」なんて呼び出したら、何十人も現われそうだ。
「どちらのレック様か、会社名か何かお分かりですか?」
「・・・」
どうやら、レック様というのは、夜のお仕事の女性の源氏名のようだ。
それでも男性、気を取り直して、
「とにかく1泊分減っちゃうんだよ。1泊分どうしてくれるんだ、イッパク分」
さっきより明らかにトーンダウンしている。本音が聞こえてきそうだった。
「イッパツ分どうしてくれるだ、一発分」

2014年6月21日土曜日

たぶん着くパキスタン航空


タイに行き始めた1980年頃は、日本人バックパッカー向けガイドブックの類いは、まだどこからも出版されていなかった。
今のように、インターネットで情報漬けにされてしまうのも旅の楽しみが半減してしまうと思うが、全く情報がないというのも心細い限り。やはり街歩きの地図とか、宿の相場くらいは知っておきたいものだ。

そんな折り、1982年11月に出版されたのがこの本“宝島スーパーガイド・アジア・タイ”だ。目的地への移動方法、街の地図、宿の値段などの情報があり、後の“地球の歩き方・タイ編(1987年刊)”の原型になっているとも言える。
この本の裏表紙には、バックパッカー御用達の航空会社として有 名だったパキスタン航空の広告が載っている。
翌1983年、ビザを取って長期の旅をしたときも、このパキスタン航空をつかった。バンコク往復で71000円也。

このパキスタン航空、安いだけにトラブルも多い飛行機として有名だった。遅れることなど当たり前。下手すれば、フライトキャンセルなんていう離れ業もありだった。
航空会社を3文字のアルファベットで呼ぶときがある。日本航空ならJapan Airlinesを略してJAL。全日空ならAll Nippon Airwaysを略してANA。パキスタン航空PIAは、本当はPakistan International Airlinesの略。ところが、PIAとは、Perhaps I Arrive「たぶん着くだろう」の省略ではないかと、旅人の間で揶揄されたものだ。

とにかく安いので、その後も何度かパキスタン航空に乗ったが、思い出す最大のトラブルは1980年代半ばのことだ。マニラからバンコクに向かうパキスタ ン航空で、僕の席は後方の窓側。夜のフライトは、ブラインドを下ろして飛ぶ。夜空でも見ようと、ブラインドを上げてびっくり。エンジンから炎が噴き出ているではないか。慌てて乗務員を呼び、窓の外を指さした。でっぷりとしたスチュワーデスは、「ブラインドを下げろ、誰にも言うな」というように、口を閉ざすジェスチャーをして立ち去ってしまった。
このときばかりは、“たぶん”でも何でもいいから無事着いてくれと、アラーの神に祈ったものだ。