2014年6月30日月曜日

特産品はモチ


ナコーンサワンは、バンコクからの距離が中途半端な場所にあるせいか、いつも通り過ぎるだけになってしまう。一度ゆっくり探索してみたいと思ってはいるのだが、なかなか果たせないでいる。
ナコーンサワンといえば、特産品はモチだ。街道沿いでは、「モチ」と書かれた看板を、いたる所で目にする。
ナコーンサワン、2014年。

2014年6月28日土曜日

テレビ中継中


バンコクのサイアム周辺は、お洒落なショッピングエリアだけに、こんなテレビ中継中の現場にも良く出くわす。
特にマーブンクロン前などは、テレビCMでもお馴染みのスポットになっているようだ。
バンコク、2014年。

2014年6月22日日曜日

1日遅れのインド航空


過去に利用したタイ行き格安航空券は、パキスタン航空、エジプト航空、トルコ航空、フィリピン航空、インド航空、ビーマンバングラデシュ航空等など。その中で、利用回数が一番多いのはインド航空だ。
成田を昼に出発して、時間どおりならバンコク着は夕方になり便利だったのと、何より格安だった。機内食でカ レーが食べられるというのも魅力のひとつ。搭乗回数をパスポートで調べてみたら、確認できただけで50回ほどもあった。

インド航空もトラブルの多い航空会社だった。印象深いのは、成田での1日遅れ(ちなみにバンコクでの遅れは珍しくなく1日どころか3日遅れまで経験している)。
それは、1990年代半ばのことだった。
インド航空の職員が、成田発は明日になること、空港内のホテルに個室で部屋をとること、食事は用意することなどを説明している。僕にとっては、成田のホテルに泊まることなど滅多にできない経験なので、かえってワクワクしてしまったほどだ。ところが、短期で行く人たちにとっては大問題のようで、何人かが職員に食い下がっている。なかでも、ゴルフズボンに白いベルトの中年男性の剣幕は、他の人を圧倒していた。
「3泊しかないのに1泊減っちゃうじゃないか」
短期間の旅行のようだ。
「1泊分どうしてくれるんだ、イッパク分!」
1泊によほど価値があるのだろう。
職員は平身低頭。男性は更に勢いづいて、
「空港には出迎えが来てるんだ。どうしてくれる!」
「それではドンムアン空港にアナウンスを流します。お迎えの方のお名前を?」
男性はちょと気まずそうに、小声で、
「レックだ・・・」
タイでは、レックなんて呼び名はいっぱいある。空港で、「レック様・・・」なんて呼び出したら、何十人も現われそうだ。
「どちらのレック様か、会社名か何かお分かりですか?」
「・・・」
どうやら、レック様というのは、夜のお仕事の女性の源氏名のようだ。
それでも男性、気を取り直して、
「とにかく1泊分減っちゃうんだよ。1泊分どうしてくれるんだ、イッパク分」
さっきより明らかにトーンダウンしている。本音が聞こえてきそうだった。
「イッパツ分どうしてくれるだ、一発分」

2014年6月21日土曜日

たぶん着くパキスタン航空


タイに行き始めた1980年頃は、日本人バックパッカー向けガイドブックの類いは、まだどこからも出版されていなかった。
今のように、インターネットで情報漬けにされてしまうのも旅の楽しみが半減してしまうと思うが、全く情報がないというのも心細い限り。やはり街歩きの地図とか、宿の相場くらいは知っておきたいものだ。

そんな折り、1982年11月に出版されたのがこの本“宝島スーパーガイド・アジア・タイ”だ。目的地への移動方法、街の地図、宿の値段などの情報があり、後の“地球の歩き方・タイ編(1987年刊)”の原型になっているとも言える。
この本の裏表紙には、バックパッカー御用達の航空会社として有 名だったパキスタン航空の広告が載っている。
翌1983年、ビザを取って長期の旅をしたときも、このパキスタン航空をつかった。バンコク往復で71000円也。

このパキスタン航空、安いだけにトラブルも多い飛行機として有名だった。遅れることなど当たり前。下手すれば、フライトキャンセルなんていう離れ業もありだった。
航空会社を3文字のアルファベットで呼ぶときがある。日本航空ならJapan Airlinesを略してJAL。全日空ならAll Nippon Airwaysを略してANA。パキスタン航空PIAは、本当はPakistan International Airlinesの略。ところが、PIAとは、Perhaps I Arrive「たぶん着くだろう」の省略ではないかと、旅人の間で揶揄されたものだ。

とにかく安いので、その後も何度かパキスタン航空に乗ったが、思い出す最大のトラブルは1980年代半ばのことだ。マニラからバンコクに向かうパキスタ ン航空で、僕の席は後方の窓側。夜のフライトは、ブラインドを下ろして飛ぶ。夜空でも見ようと、ブラインドを上げてびっくり。エンジンから炎が噴き出ているではないか。慌てて乗務員を呼び、窓の外を指さした。でっぷりとしたスチュワーデスは、「ブラインドを下げろ、誰にも言うな」というように、口を閉ざすジェスチャーをして立ち去ってしまった。
このときばかりは、“たぶん”でも何でもいいから無事着いてくれと、アラーの神に祈ったものだ。

2014年6月20日金曜日

ラフ族の村の豚と鶏


メーコックビラで知り合った旅人が、ラフ族の娘さんと結婚したので、その村に連れて行ってもらった。
場所は、メーチャンから西へ上がって行った所にある。 幹線道路から少し入っただけなのに、典型的な山の暮らしが営まれていて、街中とは全く違った別天地のような趣きだった。
村には、飼われているのか勝手に居着いているのか定かでないが、豚と鶏ばかりが目に付いた。村人にとっては、生きた保存食料といったところなのだろう。
メーチャン、1999年。

2014年6月19日木曜日

飲み物を並べて


メーコックビラで、当時の飲み物を並べて記念撮影をしてみた。
昔からあるシンハービールにドラフトが仲間入りした頃だ。カールスバーグはビアチャンに代わり、リオビールはこの前年から目にするようになった。
一番右の瓶には、にんにく漬けが入っている。生ニンニクを剥いて、酒としょう油に漬け込んだもので、もちろん手作りだ。おかゆや即席ラーメンに入れると、ひとあじ美味しさが増すのだ。
チェンラーイ、1999年。

2014年6月18日水曜日

バナナとパパイヤの生る宿


1990年代も後半になると、メーコックビラも一時のブームが去り、すっかり落ち着いた本来の姿に戻っていた。
このゲストハウスの魅力は、とにかく敷地が広い(6ライと聞いた覚えがある)こと。豊かな緑を見ていると、自然と心が和んでくる。果物の木も多く植えられていて、バナナやパパイヤは次々と見事な実を生らせてくれた。
そして、適当に収穫された果実は、客室前のテーブルにのせられ、宿泊客が自由に食べることができるのだ。
チェンラーイ、1999年。

2014年6月17日火曜日

ワントンホテルにて


最近はタイの宿も値上がりが激しく安宿を探すのも大変になったが、2000年以前は宿泊費に500バーツ以上使うことは滅多になかった。
1999年、旧い友人二人がメーサーイに行きたいというので同行。一人だけ安宿というわけにもいかないので、当時メーサーイでは最高級とされていたワントンホテルに宿泊した。3部屋ということで、100バーツほど値切れた記憶がある。
プール付きのホテルという非日常の記念の1枚。
メーサーイ、1999年。

2014年6月16日月曜日

リス族の村へは3年通った


ドイメーサローンには、リス族の村がいくつかあるが、親切にしてくれた二つの村へは、3年連続で中国正月に遊びに行く羽目になってしまった。
「来年また来い」の誘いに、素直に応じ続けたわけだ。村長はもちろん、殆どの村人は、前年に来た僕のことを憶えてくれていた。
メーファールアン、1999年。

2014年6月15日日曜日

妙齢女性は休憩中


中国正月元旦、この時間帯、若い女性陣は揃って休憩中だ。それでも、踊りを切らせてはならないとばかりに、おじさんおばさん連中が踊りの輪をつくっている。さすがに、あまり華やいだ感じはしない。
メーファールアン、1999年。

2014年6月14日土曜日

リス族の母子


昔ながらの習慣を殆ど失ってしまった日本人からすると、リス族のこのような習慣が、親から子へ、何代までも続いていって欲しいものだと、単純に思ってしまう。
メーファールアン、1998年。

2014年6月13日金曜日

踊りの合間に


踊りの合間に、お腹が空けば食事をとる。食事が終われば、また踊りの輪に加わる。休んでは踊り、踊っては休む。
こうしてリス族の人たちは新しい年を祝い合う。
メーファールアン、1998年。

2014年6月12日木曜日

リス族の踊りは


中国正月の踊りは、中央のテーブルにお神酒を置いて、その周りで輪をつくって始まる。伴奏も踊りのステップも、ごく単純なものだった。
村長は、大晦日の夜から踊り明かすのだと教えてくれた。また、酒が入ると性質が悪くなる者もでてくるのだろう、踊りを見守る村長の足元には銃が置かれていた。
メーファールアン、1998年。

2014年6月11日水曜日

ドイメーサローンのリス族の村


ドイメーサローン付近には、リス族の村がいくつかある。Yさんの話を聞いて、翌1997年から、僕のリス族中国正月訪問が始まった。
バイクで村に乗り付けると、いきなり現れた日本人を、村人は当然のように歓迎してくれた。正月料理をすすめられ、コップには酒も注いでくれた。40度以上ありそうな強烈な焼酎と、日本で食べるのとあまり変わらないつきたての餅が印象的だった。
メーファールアン、1998年。

2014年6月10日火曜日

リス族の中国正月は


「リス族の中国正月はきれいだよ」
メーサイの餃子屋で台湾餃子をつまんでいるとき、そう教えてくれたのは、当時メーサイで借家住まいをしていたYさんだった。
民族衣装は、特別な行事のために大切にしまわれていること。色も彩やかなその衣装を着て、村人全員が輪になって踊ること。正月の間は、外来者も割りとたやすく受け入れてくれること。踊りの合間に大晦日についた餅を振る舞ってくれること、などを説明してくれた。
メーファールアン、1998年。

2014年6月9日月曜日

美女のメニュー


通りにメニュー表を置いた食堂は良く見掛けるが、この店は美女の写真を貼り出していた。
昼の散歩だと、呼び込みもいないので、こんな店もゆっくり鑑賞することができる。
パタヤー、1997年。

2014年6月8日日曜日

パタヤー昼の繁華街


こういう繁華街は、昼に歩くほうが観察しやすい。夜は気が散ってゆっくり歩けない。
パタヤーでは、バンコクの繁華街とはまったく違った雰囲気を味わうことができる。
パタヤー、1997年。

2014年6月7日土曜日

パタヤーの海


初めて行った1981年頃のパタヤーは、まだ海もきれいだったと記憶している。
その後、経済発展とともに海は汚れていった。しかし浜辺の整備や下水道工事がされ、この頃には、またきれいな海がよみがえってきていた。
パタヤー、1997年。

2014年6月6日金曜日

パタヤーの船着き場から


生まれてからずっと海のある市に住んでいるせいか、タイに来ても、わざわざビーチリゾートで遊びたいという気持ちは希薄なようだ。それでもパタヤーへは、数年おきに出かけている。
バンコクから行きやすいこと、海あり繁華街あり食も遊びもさまざま、いわば非日常の世界にふれることができるからだ。 しかしそれ以上に、1981年に初めて訪れて以来のパタヤーの変遷を確認していきたいという好奇心によるものが大きいかもしれない。
パタヤー、1997年。

2014年6月5日木曜日

スリクルンホテルより駅前広場を望む


昨日投稿したパノラマ画像の、右側に付くはずの写真がこれになる。どうも画角が合わないので、この写真だけ付けることができなかった。
ほぼ中央に見える古びた建物が、当時バンコクでの定宿として良く利用したステーションホテル(集成旅社)だ。地下鉄工事のため、建物が削られて小さくなってしまったが、今も変わらず営業されているようだ。
右下には船着き場がある。ここからバンランプーや、乗り換えてプラトゥーナムまで、ボートで行くことができた。
バンコク、1997年。

2014年6月4日水曜日

スリクルンホテルより駅方面を望む


スリクルンホテルから写した2枚の写真を張り合わせて、パノラマ風にしてみた。右手のかまぼこ形が中央駅、左にある運河は水路としてボートが運行されていた。
高層建築もぼちぼち建ち始めているが、まだまばらで、今とは比べようもないだろう。
バンコク、1997年。

2014年6月3日火曜日

プラカードには


ろうそく祭りパレードにて。
二人の「男子(確認済み)」高校生が持つプラカードには、幻想的パレード、と書かれている。意味は不明だ。
チェンラーイ、1997年。

2014年6月2日月曜日

電線が引っ掛かる


ろうそく祭りの山車に、長い竿を持った人が付き添っているので、何だろうと見ていたら・・・写真のとおり、電線を持ち上げる役だったのだ。なるほど、他のパレードと違って、背の高いろうそくを載せていれば、街中の電線に引っ掛かってしまうだろう。
ろうそく祭りならではの光景といえる。
チェンラーイ、1997年。

2014年6月1日日曜日

ろうそく祭りタイ舞踊の山車


音楽を奏でる山車があれば、こちらの山車はタイ古典舞踊の踊り手を乗せている。
発進、停車のたびに、バランスを崩さないかと心配になってくる。
チェンラーイ、1997年。