2013年11月30日土曜日

タークからメーソートへ


タークの次に向かったのは、70kmほど離れたメーソートの街だ。
ターク・メーソート間を結ぶ乗り物は、バスと乗り合いワゴン車の二とおり。乗り合いのほうが速かろうと思いそちらを選択、運賃は25バーツ(当時約150円) だった。車内は極限まで人が詰め込まれ、身動きがとれないほど。なんとか窓際の席を確保したのはいいが、走り出してからがまた大変。
道路は舗装されているのだが、曲がりくねった山道。右に左に、上ったり下ったり。しかもスピードは落とさない。ワゴン車は、途中、上りで息切れしているバスを何台 か抜き去っていく。まるでジェットコースターに乗っているような気分だ。
参ったのは周りのタイ人が、こぞって車酔いしてしまうことだ。このあたり細かい描写は避けたほうが良さそうか。
メーソート、1991年。

2013年11月29日金曜日

タークで見かけた水車


1990年タークに行くことにしたのは、たまたまバスの席が空いていて、すぐに出発するからという理由から。何とも無目的な旅立ちだった。
当時の長距離バスは、なかなか時間どおりには到着してくれない。ほとんどは途中でパンクしたり、エンジンが不調になったりということが原因だったのだが、このときは別のトラブルが発生した。
車内後部の配電盤が火を噴いたのだ。爆発音と煙に驚いた乗客は、悲鳴をあげながら前部に殺到。将棋倒しにな り、けが人まで出てしまった。
代車がくるまで待たされ、大幅に遅れてのターク到着となった。
苦労して辿り着いたタークは、ちょうど良い大きさの町だった。ピン川の流れを眺めながらの散歩も楽しく、その居心地の良さに味をしめ、翌1991年も再訪することになる。
ターク、1991年。

2013年11月28日木曜日

ピン川の畔タークにて


1990年、友人と別れた後にタークへ行ってみた。
タークは、ピン川の東側にへばりつくようにできた小さな町で、居心地の良さを感じた。どうも、川の流れや海岸など、水を眺めていると落ち着ける傾向があり、タークもそれにぴたりと当てはまってしまったようだ。
タークでの宿は川沿いのタークホテル。市場にも近くて便利だった。150バーツ(当時約900円)の部屋は窓なし。そのかわり、階上からはピン川が一望できた。部屋は寝るためのものと割り切り、もっぱら外で過ごすようにした。
ターク、1990年。

2013年11月27日水曜日

山岳民族の踊りショー


オールドチェンマイカルチャーセンターのカントークディナーには、ショータイムも組み込まれていた。いくつかの山岳民族のフォークダンスは、それぞれの民族衣装で踊られ、短時間ながらなかなか興味深いものだった。写真はリス族の踊りだ。
後年、チェンラーイで中国正月に山へ遊びに行き、リス族の村では、ほとんど1日中踊り続けているのに驚かされた。
チェンマイ、1990年。

2013年11月26日火曜日

カオテーンというお菓子


オールドチェンマイカルチャーセンターのカントークディナーで、日本の“おこし”のような食べ物が出された。
これは、お米を干した後、揚げて作った“カオテーン”というお菓子だ。やわらかい歯応えと、素朴な甘味は、懐かしい味わいだった。
チェンマイ、1990年。

2013年11月25日月曜日

チェンマイで食べたカントークディナー


一人旅が基本だったが、たまに気心の知れた友人が同行することもあった。1990年の北タイ巡りは、総勢3人と賑やかな旅となった。
チェンマイでは「オールドカルチャーセンター」なる場所で、カントークディナーを食べてみた。こんな贅沢は、まず一人旅では味わえない。
料理の中では、写真左下のハンレーが、特に美味しかった。これは、とろとろになるまで煮込まれた豚バラ肉に、豆、生姜が入ったカレーだ。
この料理は、後にチェンラーイの惣菜市場で発見し、飽きるほど食べることになる。
チェンマイ、1990年。

2013年11月24日日曜日

傘作りの工房


竹と紙で作られた傘は、チェンマイの特産品だ。
チェンマイ郊外の町ボー・サーンには、道の両側に、たくさんの小さな工房があった。カラフルな傘が、手作業で作られていく過程を、見学することもできた。
ボー・サーン、1990年。

2013年11月23日土曜日

牛の群れ横断中


アイスクリームを食べながら外を眺めていたら、家路に帰る牛の群れが道路を横断して行った。
この交差点はハーイェイク(5差路)と呼ばれ、文字通り5本の道が交差している。しかも南北に走る道は、ミャンマーに続くスーパーハイウエイだ。
チェンラーイ、1990年。

2013年11月22日金曜日

ココナッツアイスの美味しい店


スーパーハイウエイを挟んでメンラーイ王像の反対側に、「トゥックカーオ(白い建物)」という食堂があった。いつも客で賑わっている店は美味しいという定説通り、この店も何を食べても満足できた。
暑い時期はスイーツ目当てによく通ったが、このココナッツアイスクリームは食べ応えがあった。あっさりとした甘味のアイスは中までたっぷり詰まっていて、さらにココナッツ殻に付いた果肉を食べる楽しみまであるのだ。
チェンラーイ、1990年。

2013年11月21日木曜日

チェンラーイバスターミナル


現在は、こちらの(第1)バスターミナルは、専ら近距離用とされている。バンコクなどの発着は第2バスターミナルの利用となる。
第1と第2は7kmほど離れているので、乗り合いソンテオが運行している。料金は1人10バーツ(2013年3月時)だが、人数が揃わないと20バーツになったりする。
1990年のバスは、今と比べると、やはり数段古ぼけて見える。
チェンラーイ、1990年。

2013年11月20日水曜日

網戸で何やら


メーコックビラの夜は静かで、本を読むには最適の環境だった。奥の棟の部屋には、ベッド脇にスタンドも置かれているので、横になっての読書もできる。
疲れた目を休めようと、窓を見やると、へばりついたヤモリがちょうど交尾の最中だった。
チェンラーイ、1990年。

2013年11月19日火曜日

バスタブにはられた水は


メーコックビラの奥の棟は、バスタブつきの部屋だった。当時120バーツでお湯に浸かれるとあって、特に日本人には人気があった。
ところが、水の供給は井戸からだけで、乾季も終わりごろになると、地下水も枯れてご覧のとおり。
もちろん現在は上水道が引かれているので、こんなことはないだろう。
チェンラーイ、1990年。

2013年11月18日月曜日

サンカムペーンの中学生


チェンマイ市街から東へ、織物の町サンカムペーンを歩いてみた。ちょうど下校時間帯で、中学生の4人組に話を聞く。
着ている服が異なるのに、同じ学校だと言う。いくつか指定の服があり、どれを着るかは自由とのこと。織物の町だけに、自分で着る服にも関心が高いように感じた。
サンカムペーン、1990年。

2013年11月17日日曜日

竹と紙の町ボー・サーン


チェンマイから東へバイクを走らせると、やたらと番傘や扇の目立つ町に着く。何れも竹と紙で作られたもので、通りの両側にずらりと並ぶチェンマイの特産品は壮観だった。
当時は小さな工房もたくさんあり、手作業で作られる様子も見ることができたのだが。
ボー・サーン、1990年。

2013年11月16日土曜日

織物の町サンカムペーン


チェンマイ旧市街から、バイクを東へ走らせると、小さな町がいくつか点在しているのに出会う。
そのなかの一つ、やたらと織物の店が並んでいるのがサンカムペーンだった。タイ人客は、綿織物の生地を買って、パ一トウンと呼ばれる腰巻スカートを縫ってもらっていた。
サンカムペーン、1990年。

2013年11月15日金曜日

ドイ・ステープ寺院にて


階段を登りきったところにある寺院には、タイ人の参拝者がたくさんいた。
皆、靴を脱ぎ、神妙にお参りをしているようだった。金箔を買い、仏像に貼りつける姿も見かけた。
チェンマイ、1990年。

2013年11月14日木曜日

ドイ・ステープ寺院への階段


バイクを走らせるには、チェンマイも絶好の条件を備えていた。当時は道路もシンプルで、旧市街から、せいぜい8方向に延びているだけだった。
例えば北西に向かえば、ステープ山に向かうことになる。このコースも坂あり、カーブありで、気分良く走ることができる。
バイクをとめて、頂上のワット・プラタート・ドイ・ステープには、歩いて登ることになる。階段は、当時の資料によると、全部で348段あるという。
チェンマイ、1990年。

2013年11月13日水曜日

ゴールデントライアングルの小規模工場


1990年以前、タイの郊外(特に田舎)は、ツーリングに絶好の条件を備えていた。道が広く、車もほとんど通らない、それに信号など滅多に出会うことがなかった。
この時期、よくレンタルバイクを借りて、あちこち走りまわった。特にゴールデントライアングルの辺りは、適度に坂やカーブもあり、走って楽しいコースだった。
ところどころに小さな工場ができていて、観光土産の小物などを製縫していた。北タイが観光地として発展していく気配が、こんな所から感じられた。
ゴールデントライアングル、1990年。

2013年11月12日火曜日

バンコク中央駅東側 1989年


バンコクでの定宿だったステーションホテルから、バンコク中央駅フアランポーンの東側を撮ってみた。
現在この場所は、高架道路の入り口になっている。
バンコク、1989年。

2013年11月11日月曜日

バンコク中央駅 1989年


当時のバンコクでの定宿、ステーションホテルからは、バンコク中央駅フアランポーンを見下ろすことができた。
かまぼこ型の駅舎に出入りする人を眺めていると、時間の経つのを忘れた。
バンコク、1989年。

2013年11月10日日曜日

食材が並ぶ朝市


チェンラーイ大市場の周りには、朝早くから食材を扱う市がたつ。
特に、ワット・ムンムアン付近で売られる山の野菜が人気で、食堂の仕入れ用にまとめ買いする人が目立つ。
チェンラーイ、1989年。

2013年11月9日土曜日

土産物売りに転身


数年前、顔見知りになったメーサーイの写真少女が、土産物屋の売り子になっていた。
少女たちに衣装を貸して、彼女たちを管理するのはこの店だったことを思い出す。
「もう年だから引退したの」
と言う言葉には、苦笑するしかなかった。
メーサーイ、1989年。

2013年11月8日金曜日

家路に着く写真少女たち


メーサーイの「タイ最北の地」で働く写真少女たちは、殆どがビルマ側に住むシャン族の子どもたちだった。
夕方、仕事が終わると、普段着に着替えてビルマ側へ帰って行く。皆、どこにでもいるような、ごく普通の女の子だ。
メーサーイ、1989年。

2013年11月7日木曜日

閉められた国境も


タイビルマ橋の上にて。
当時、地元の人たちは、タイ・ビルマ間を比較的自由に行き来することができた。夕方、決められた時刻になると、国境のゲートは閉ざされてしまう。とは言え、人ひとりくらいなら通りぬけられる隙間があり、閉められる時間など大した問題ではないようだった。
写真のとおり、人間どころか、自転車まで持ち出すことができる。
メーサーイ、1989年。

2013年11月6日水曜日

タイビルマ橋の上から 1989年


以前、同じ場所から写したことがあるので、数年経ってどう変わったかを記録してみた。
右手タイ側に4階建ての建物ができているが、これはメーサーイコンプレックスというホテルで、現在も営業されている。この写真の10年ほど後から現在に至るまで、オーナーとは親しくさせていただいている。
メーサーイ、1989年。

2013年11月5日火曜日

ビルマからミャンマーへ


1989年6月、軍事政権により、ビルマの国名が対外的にミャンマーへと変えられた。
8月にメーサーイへ行ってみると、確かに「BURMA」から「MYANMA(MYANMARではなかった)」へと変更されていた。しかしタイ側では、変わらず「パマー」とよばれている。
メーサーイ、1989年。

2013年11月4日月曜日

高床式住居の娘さん


ランミット村を散策中、高床式住居にすむ家族に招き入れられた。
1杯の水をご馳走になり、娘さんの写真を1枚撮らせていただいた。なかなか正面を向いてくれないので、写真が嫌なのかと心配したがそうではなかった。単に照れ臭かっただけで、丁寧にお礼を言われ安心した。
ランミット村、1989年。

2013年11月3日日曜日

村の高床式住居


ランミット村で見かけた、タイではお馴染の高床式住居。
このような住まいには、いろいろな利点がある。まず、雨季の浸水を防ぐことができる。小動物の侵入の防御にもなる。そして暑季には床下で涼むことができる。
いずれもタイの自然に上手く対応した、実に素晴らしい住居なのだ。
この後、家に招き入れられ、コップ1杯の水をご馳走になった。
ランミット村、1989年。

2013年11月2日土曜日

ランミット村山岳民族の少女


ランミット村では、いろいろな山岳民族が生活している。名前通り、「ランミット(ルアムミット)=混ざる」の村なのだ。
写真の姉妹は、アカ族の少女だったと思う。
ランミット村、1989年。

2013年11月1日金曜日

土産物売りのカレン族の少女


ランミット村で土産物を売っている少女がいた。
カレン族女性の象徴である貫頭衣を身に着けている。彼女が着ている白色の衣装は、処女の証しとなる。カレン族は、貞操観念が強いと言われる。
ランミット村、1989年。