2014年11月28日金曜日

カセットテープ屋台の想い出


もう20年以上も前のことだ。
パッポン通りの北側、スリウォン通りに、カセットテープを並べた屋台が出ていた。品揃えが豊富なことと、まとめ買いだと値引いてくれるので、よくその店で買い物をした。
ある日、そのカセットテープ屋で、さて何を買おうか物色していると、たどたどしい日本語で声を掛けられた。
「すみません、“雨”という歌が欲しいです。日本の歌です」
同僚の間でこの歌がとても評判が良く、是非カセットテープで練習したいのだと言う。日本の歌は日本語で表記されている。それを読めないタイ人なら、目指す曲を見つけるのはとうてい無理な話だ。
若い女性の頼みとあって、カセットテープの山から一生懸命探しだしたのが、森高千里の“雨”だった。
そのことがきっかけで、誘われるまま近くのカラオケバーに入った。彼女は日本人向けカラオケバーに勤めるホステスだったのだ。
店のカラオケで聴いた彼女の歌う“雨”は、お世辞にも上手いとは言えなかった。
その後、店を再訪する機会はなかったので、カセットテープでの練習の成果が如何なものになったのか、知る由もない。

2014年11月27日木曜日

雨上がりの夕景


2002年から2009年の間の写真は、ほとんど残っていない。
ちょうど2002年頃が、フィルムカメラからデジタルカメラに乗り換えた時期にあたる。最初に買ったコンデジのあまりにもひどい写りに、写真を撮る意欲が一時的に失われていたことによるものだ。そのため、この8年間の写真は、たまに持ち出す古いフィルムカメラで撮ったものだけが残っている。
2002年以前、タイに持って行くフィルムカメラは、コニカビッグミニかニコンメタルズームで、当時メインとして使っていたオリンパスOM-2など、荷物になるので一度も持参したことはない。
もっと昔は、更に小型のコニカレコーダーや110フィルムのもの、ポケットカメラなども持って行ったことがある。コニカレコーダーはハーフサイズで、フィルム代の節約にもなった。
この写真は、まだフィルムカメラで撮ったもの。2002年のタイでの写真は、この1枚しか残っていない。
チェンラーイ、2002年。

2014年11月26日水曜日

パタヤーの注文食堂


パタヤーの表通りでは、外国人が多いせいか、いろいろな国の料理を食べることができた。その代わり値段は少々高め。いつもそんなものばかり食べていられないので、大衆食堂での食事がメインになってくる。
嬉しいことに一本裏通りに入れば、 このように小さな食堂がたくさんある。地元の人が利用するこのような店なら、安く美味しく食べることができる。この写真は、お馴染みの“注文に従う料理”の店。普通盛り20B(バーツ)、大盛り25B。
因みにこのとき食べたのは、豚肉バジル炒めのせご飯目玉焼き添え。
パタヤー、2001年。

2014年11月25日火曜日

2001年のパタヤービーチ


初めて行った1981年頃のパタヤーは、まだ海もきれいだった。寝転がって日光浴をする欧米人と、水遊びを楽しむタイ人。タイ人がTシャツを着たまま海に入っていくのには少し驚いた。たまにトップレスの白人女性などもいて、これにはもっと驚かされた。 通り過ぎた後にさりげなく振り返って見る、というのがトップレスの鑑賞テクニックのようだった。
経済発展とともに海は汚れていったが、浜辺の整備や下水道工事がされ、この2001年頃には、またきれいな海がよみがえってきていた。
パタヤー、2001年。

2014年11月24日月曜日

クンコーン滝


タイの滝は、一般的に落差の小さなものが多いのだが、このクンコーン滝はなかなか豪快で見応えがあった。乾季でこの水量なら、雨季はさぞ立派な景観になるのだろう。
場所は、チェンラーイ市街西側のチェンマイ門からずっと西へ行った所にある。
また、このときは夕方だったためか、他に見物する人は見当たらなかった。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月23日日曜日

メーファールアン公園整備中


シーナカリン王太后の宮殿南側には、大規模な庭園の整備が進められていた。
花など鑑賞する機会の少ないタイ国民に、 広く世界の花を楽しんで欲しいとの願いが込められているのだ、という説明を聞いた。
メーファールアン庭園は、この後に公開されたが、その後も整備改修が繰り返され、現在はこの写真からは全く想像できないような姿になっている。
メーファールアン、2001年。

2014年11月22日土曜日

ドイトゥンパレス整備中


タイ北部を愛したシーナカリン王太后は、晩年ドイトゥンに宮殿を建て、そこで過ごすことを楽しみにいしていたという。
生誕100年を記念して、宮殿とその周辺の整備が進められていた。
メーファールアン、2001年。

2014年11月21日金曜日

王太后生誕100年


現プミポン国王の母親は、シーナカリンタラー=ボーロマラーチャチョンナニー王太后という名前らしい。1900年生まれなので、この前年2000年から、チェンラーイの街中では、生誕100年を祝うこのような立派な表示板があちこちに設置されていた。
王太后はタイ北部を愛し、頻繁に訪れていたことから、特にチェンラーイでは人気が高い。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月20日木曜日

花・果物市場


チェンラーイバスターミナル近くにあるスリコーン市場は、日本人旅行者の間では花市場とか果物市場とか呼ばれた。道路沿いに花屋や果物屋が並んでいるからだろう。その他の売り場、日用品や食品などは、市場の中に入って行かないと見られない。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月19日水曜日

ハウマッチおじさん現る


メーコックビラに日本人が僕しか滞在していなかったときに、そのおじさんはチェックインしてきた。
チェンラーイは初めてということで、いろいろ街の様子を訊かれたので、ひと通り説明すると、ちょっと遠慮勝ちに、
「あのぅ、夜の遊びはどんなもんでしょうか? つまり・・・女の子なんですけど」
更に話を聞くと、どうやらチェンラーイでは若い女の子と遊び放題だ、との情報をどこかで仕込まれてきたらしいことが窺えた。
時計塔近くに小さなバー街(チェンラーイパッポンとか呼ばれていた)があることを教えると、
「今夜行きましょう。ビールの1杯くらい奢りますから」
と誘われる羽目になった。
因みに、こういう店での遊び方は、店内でビールを頼み、好みの女の子にドリンクを奢り、デートを誘いかける、というシステムらしい。
このおじさん、そうとう気合が入っているようで、だいぶ早い時間の出撃とあいなった。そんなに焦っても…。案の定時間が早過ぎて、女の子はまだ外でお喋りに興じている。もちろん店内には、まだ客もいない。
気合十分のおじさんは、外に座っている一人の女の子の前に立ちはだかると、いきなり、
「How much?」
女の子は怪訝そうに、ドリンク代の説明をする。するとおじさんは、
「No. You, How much?」
いきなりストレートな誘いに、女の子もたじたじの様子。おじさん、そんな反応にも臆せず、たたみかけるように、
「You, How much?」
ああ、この後のことは、あまり思い出したくない。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月18日火曜日

北タイ乾季のフルーツ屋


1月下旬、スリコーン市場で果物屋を覗いてみた。マンゴスチンやチョンブー、ミカン、ブドウ、リンゴなどが並んでいる。
最近は輸送網の拡充で地域差はほとんど見られなくなったが、この当時はまだ、ミカン、ブドウ、リンゴなどは、北タイだからこそ安く買える貴重品だった。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月17日月曜日

ドイメーサロンの路上市場


中国正月元旦の日も、ドイメーサロンの路上市場は、いつもと変わらず営業されていた。とはいえ、客の方も少なく、いつもと変わらず閑散としている。
メーチャンからの乗り合い車は、この辺りに到着していた。
メーファールアン、2001年。

2014年11月16日日曜日

元旦を祝う村


ドイメーサロンの村でも、元旦を祝う踊りが賑やかに行われていた。
近隣の山岳民族も参加していて、ラフ族、アカ族、リス族の民族衣装が混在していた。
メーファールアン、2001年。

2014年11月15日土曜日

ドイメーサロンの移動式遊園地


中国正月に合わせて、ドイメーサロンにも移動式遊園地が設営されていた。場所は路上市場前の学校だ。
遊んでいる子供の数は多くないが、これでも賑わっているのだろう。
メーファールアン、2001年。

2014年11月14日金曜日

ドイメーサロンの中国正月


国民党残党の村として知られるドイメーサロンだが、ちょうど中国正月のときに居合わせたのは2001年のことだった。
チェンラーイ街中に比べると、割りと静かな元旦だった。赤いシャツを着た一団が、店や住宅を周って行く。一軒一軒入り口の前で、おそらく正月を祝う歌をコーラスし、ご祝儀を受け取る。そんな光景だけが印象に残っている。
メーファールアン、2001年。

2014年11月9日日曜日

Big-Cエスカレーターの前で


チェンラーイのBig-Cといえば、忘れられない思い出がある。開店直後、エスカレータの前での、ちょっとした出来事だ。
チェンラーイの郊外に、このBig-Cが大々的にオープンすることになったのは、1990年代も後半のことだった。Big-C開店は、地元では大ニュースになった。何しろ当時のチェンラーイでは、買い物といえば市場ですませるのが常識。それまでも、デパートらしきものが無かったわけではない。しかし街の中心にある2軒ほどのそれはとても小さく、Big-Cなどという大規模店は市民にとっては別世界の存在だったからだ。
開店の日、早速出かけてみると、さすが地方都市。バンコクなどの都会のBigCと比べると、明らかに客層が垢抜けていない。市場に野菜を買いに行くような気分で来ている人ばかり。しかも広い店内はまだガラーンとしている。
二階に上がるために、エスカレーターの方へ行くと人だかりができている。エスカレーターは動いているのに、誰も乗っていない。いったいどうしたのかと思いながら最前列へ。
エスカレーターのステップの前には、いかにもさっきまで農作業をしていましたという風情の、中・熟年女性が数人、照れ笑いを浮かべながら佇んでいる。お互いに顔を見合せながら先を譲り合っている様子。納得した。エスカレーターを前にして、第一歩を踏み出す勇気がないのだ。後続の人達も、どうやら腰が引けているようで、誰も前にしゃしゃり出ようとはしない。
「足を乗せれば良さそうだけど、動いているし怖いな。失敗して転んだらみっともないし・・・」
この街で初めて見るエスカレーターを前にして、内心こんな風に考えていたのだろう。
結局エスカレーターベテランの日本人が先頭に出て、見本を示す羽目になってしまった。すると、その後に続いて、皆さんそれに倣い、まるで小さい子供がするように、ぴょんと跳び乗っていた。
上手く乗ることができて、ちょっと誇らしげな表情を見ていると、こちらまで嬉しい気分になってしまったものだ。

2014年11月8日土曜日

Big-Cで買ったサバステーキ


チェンラーイにBig-Cがオープンしたのは、1990年代後半のことだった。定宿のメーコックビラからは離れていたが、自転車を持っていたので、サイクリングがてら良く遊びに行った。
帰りがけに夕飯の惣菜を買ってくることもしばしば。この日は、生野菜とサバステーキを買い込んだ。
サバステーキはタイでは良く見掛ける料理で、発祥はパッポン通りにある「ミズキッチン」という洋食屋らしい。
Big-Cのサバステーキは、脂っ気がなくぱさぱさした感じだったが、まあ海の魚が食べられれば良しとしよう。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月7日金曜日

魚といえばティラピア


チェンラーイ辺りで、魚料理といえば、ナマズかティラピアだ。特にこのティラピアは、いかにも焼き魚という雰囲気があって、日本人の口にも良く合う。
ティラピアは、今でこそ一般的な食材になっているが、元を辿ると日本から贈られた50匹が繁殖したものらしい。そのきっかけは、現在の天皇陛下が皇太子時代、タイの食糧事情の向上にと、50匹のティラピアを寄贈したことによる。
日本から来た魚の子孫を、日本から来た旅行者が食べているわけだ。どうりで親しみを覚えるはずだ。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月6日木曜日

夕食は簡単に


この日の夕食は、幅広米粉麺炒め(パット・シウユ)と北タイ風ソーセージだ。ソーセージにはキャベツの千切りと生姜が添えられている。右のビニール袋には豆乳が入っている。
普段より軽めのメニューになっているのは、昼にたくさん食べたためだろう。 どこかのホテルで、バイキングでも食べたのではなかろうか。当時のホテルバイキングは、高くても100バーツ(当時約300円)だった。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月5日水曜日

夕飯は貝入りお好み焼き


ゲストハウスでのこの日の食事写真、メインは右端の、ホイ・トートと呼ばれる貝入りお好み焼きだ。
チェンラーイは海からはるかに離れた内陸なので、海産物は鮮度が心配だったが、たまに無性に食べたくなってしまうのがこのホイ・トートだ。タイ人はこれを単品で食べているが、僕には勿体ない感じがして、おかずとしていただくことが多い。
他のおかずもご飯にのっているので、この日はずいぶん贅沢な食事だ。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月4日火曜日

夕食は豚足飯


ゲストハウスで撮りためた食事写真の1枚。
この日の夕食のおかずは、豚足と茹で山菜。当時、 このメニュー(おかずとご飯)で30バーツほどだろうか。
食堂でぶっかけご飯を注文しても、20バーツ位だったので、出費は大して変わらない。しかし、総菜屋で買った方が量が多いし、ビールを飲みながらゆっくり部屋で食べるのは、また特別に美味しく感じられる。写真では分からないが、カセットのBGMが流れている。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月3日月曜日

ゲストハウスでの朝食


2000年8~9月にチェンラーイに滞在したときは、定宿のメーコックビラに知り合いが一人も居合わせなかった。それどころか客自体少なく、宿泊者一人だけという夜も続いたりした。
時間はたっぷりあるためか、日常の食べ物を撮り残しておこうと思ったようで、そんな写真がたくさん残っている。
この日の朝食はお粥(ご飯にお湯をかけただけだが)。日本から持ってきたふりかけと、現地で売られている梅の酢漬け、そして半熟卵が入っている。
一杯の牛乳は、日本でもタイでも、ほとんど欠かせない習慣だ。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月2日日曜日

露店のある頃のタイ・ビルマ橋


タイ・ビルマ橋を初めて渡った1983年には、橋の上は物売りでいっぱいだった。食べ物や織物も売られていたが、もっと怪しげなものを持った売り子も良く見られた。ルビーらしき原石、生きたトカゲ、日本軍の軍票、ヒョウの毛皮まで売られていた。
1997年国際国境として開放されてからは、しだいに物売りの姿は消えていった。この2000年の写真にも、果物売りの姿が見られるだけだ。
メーサーイ、2000年。

2014年11月1日土曜日

ラオス側から見たメコン


タイに居ると、メコンは常に陽の上る方向にある。ところが、対岸ラオス側からだと、メコンの方角から西日が射してくる。当たり前のことだが、こんなことが非日常として感じられた。
北タイからルアンプラバンへ入る場合には、チェンコンからフエサイにわたり、そこからボートで下って行くのが一般的だが、乾期は、川の水量が極端に減少している。
ルアンプラバン、2000年。