2013年10月31日木曜日

ゾウの村へ上陸


山岳民族とゾウが暮らすランミット村へ、ボートで遊びに行ったのは1989年3月のことだ。
川の水量が極端に少なく、途中何回も浅瀬に乗り上げてしまい、その度に乗客が川に降りてボートを押すという珍道中となった。
そのために、到着したときは、殆どの乗客はズボンを捲り上げている。
ランミット村、1989年。

2013年10月30日水曜日

国境の川も子どもたちの遊び場


タイビルマ橋の上より。
国境の川といえど、子どもたちにとっては、格好の水遊びの場所に過ぎない。この頃から、ビルマ側にも、建造物が目立つようになってきた。
軍事政権により、ミャンマーという国名に変わるのは、この翌年6月のことだ。
メーサーイ、1988年。

2013年10月29日火曜日

写真少女にあやかって


メーサーイの写真少女の人気にあやかろうと、一時期、アカ族の民族衣装を着た子どもたちが、国境付近に現れたことがある。観光客と一緒に写って、一人5バーツという商売だったが、あまり売り上げの方は芳しくないようだった。
本家写真少女たちの衣装は、近所の土産物屋が用意した華美なものだが、それに比べてアカ族の生の衣装は、どうしても派手さでは敵わない。
メーサーイ、1988年。

2013年10月28日月曜日

ラマⅣ通りにあったソンブーンレストラン


その昔、ソンブーンレストランは、ラマ4世通りからすこし北に入った所にあった。
飲み屋の女の子に連れて行ってもらい、店名どおり十分満足のいく食事に驚き、その後も一人で通うようになっていた。
初めて一人で行ったとき、焼きガニを注文したら、大きな器にライムを浮かべた水が目の前に置かれた。飲み水と思い口に持って行くと、慌てて店員が駆け付けて来た。その水は手洗い用だったのだ。
また別の日、エビを注文しようと頼むと、厨房に連れて行かれ、大きさごとの値段を細かく説明してくれた。
数年前、友人と新店舗で食事をしたが、あまりにもそつのないサービスに、昔のことが逆に懐かしく想い出された。
バンコク、1988年。

2013年10月27日日曜日

チェンラーイの時計塔1988年


1990年近くになると、経済成長とともにチェンラーイにも車が増えてきた。車のスピードも、以前よりだいぶ速くなっている。
初めてきた頃は、動いていないことが多かった時計塔の針も、ほぼ正確に時を刻むようになっていた。
停電で街が真っ暗になることもほとんどなくなり、チェンラーイも立派な地方都市として発展しつつあった。
チェンラーイ、1988年。

2013年10月26日土曜日

スーパーハイウエイ拡幅工事


チェンラーイからメーサーイまでの道路は、ずっと片側一車線だった。スーパーハイウエイという名にしては、何とも貧弱なものだ。
その拡幅工事が行われたのが1988年。背景には、観光開発、麻薬撲滅を目指す農業振興、ちょうどバブル景気というタイミングもあったろう。
メーサーイ、1988年。

2013年10月25日金曜日

メーコックを逃れて


この前年あたりから日本人客で混雑するようになったメーコックビラを逃れて、市内のゲストハウスを転々とした時期があった。
例えばここ、スーパーハイウエイを東に渡ったところにあるマリーナビラ。建物も洒落ていて、室内もちょうど良い広さだったが、何故か馴染めない。なるほど、寝るだけならこれで十分かもしれないが、ただそれだけで楽しいはずもない。
いくつかのゲストハウスを渡り歩いた結果、一人旅とはいえ、やはり人との触れ合いが大事なのだと、あらためて実感することとなった。
親しみやすい宿の人、入れ替わり現れて去っていく旅人たち。メーコックビラには、そんな人たちとの触れ合いがあったのだ。
写真左には、当時使っていた愛車が写り込んでいる。
チェンラーイ、1988年。

2013年10月24日木曜日

メーコックビラの茶飲み場


この踊り場が、メーコックビラの談話室代わりになっていた。
常連客には、個性的な面々が揃っていた。1960年代のタイを知る旅の大ベテランOさん、70cc のカブでタイの国道全線走破を目指すTさん、タイ語が堪能で話し好きのYさん、“世界美少女図鑑”という本の著者三輪隆さん(現さくらプロジェクト・タ イ代表)等など。
何れもこのテーブルで語り合った人たちだ。
チェンラーイ、1988年。

2013年10月23日水曜日

メーコックビラ大盛況


隠れ宿のようだったメーコックビラが、日本人に人気の宿として大ブレイクしたのは、1987年に出版された“地球の歩き方・タイ”に紹介されてからのことだ。
ちょうどその頃、ゲストハウスのすぐ前の大市場に夕方から市がたつようになったのと、やはり目の前にスーパーマーケット(サハタウィーキットという名称)が開店して、生活の便が良くなったのも、人気宿になる大きな要因だったろう。
その居心地の良さと利便性のお陰で長期滞在者が多く、この後1990年頃には満室の状態が続くほどの盛況となる。
チェンラーイ、1988年。

2013年10月22日火曜日

温泉の卵屋


バーンドゥで偶然見つけた温泉だが、まだそれを利用した入浴施設はなかった。そのかわり、小さな建物でゆで卵をつくっていた。
おそらく、この熱はもったいない、何かに使えないものかと、考えた末のものと思う。もしかすると、日本の温泉卵をヒントにしたのかもしれない。
チェンラーイ、1987年。

2013年10月21日月曜日

温泉が湧き出ている


チェンラーイからメーチャンへ行く途中、ドゥ-村市場付近で「温泉」の立て札を発見した。
矢印に従って進むと、ほどなく硫黄臭が漂ってくる。一見溜め池のように見えるが、確かに温泉が湧き出ていた。
こんな温泉を見て興味を持つのは日本人くらいだろう、と思っていたが、後年この場所に見事な温泉施設が建設されることになる。
現在の「PONG PHRABAT HOT SPRING」の、昔の姿だ。
チェンラーイ、1987年。

2013年10月20日日曜日

バンコクに渋滞広まる


1980年代後半、タイも経済成長の道を突き進んでいく。
ちょうどこの頃から、バンコク市内いたる所で、大渋滞が見受けられるようになった。その時間帯の交通量によって、車線の数を柔軟に変更しているのだが、写真のとおり、その効果はほとんどない。
バンコク、1988年。

2013年10月19日土曜日

乗るはずの飛行機が


急ぎの用があったので、4月29日のチェンマイーチェンラーイ便をリクエストしたがすでに満席。仕方なく、バスでチェンラーイに到着。今度は帰りの便の予約でタイ航空のオフィスにいくと、顔見知りの職員が緊張した面持ちで、
「しばらく飛行機は飛ばないだろう」
と言う。
「空港に行けば理由は分かる」
早速空港に行ってみると、前日にリクエストした飛行機が、滑走路から外れて横たわっているではないか。しかも落ちたばかりのホヤホヤ、まだ湯気が立ち上っていそうだ。確かにこの飛行機をどかさなければ、滑走路は使いものにならないだろう。
見物のタイ人たちの集団に入っていくと、一人が事故の様子を説明している。
「落ちたのを見たんだ! 3回はずんで火花を散らしながら止まったんだ」
身振り手振りを交えて、唾を飛ばさんばかりの熱演だ。
誰かが、乗客はどうなったんだと言うようなことを尋ねる。
「救急車が来て運ばれて行った」
もしかすると、僕も病院送りになっていたかもしれない。頭の中では、007ジェームズボンドのテーマが鳴り響いている。席がとれなかったことが幸いしたようだ。
新しい見物人が来ると、先ほどのタイ人がまた得意そうに、
「落ちたのを見たんだ! 3回はずんで・・・」
彼は来る人来る人、全員に説明しているようだった。
チェンラーイ、1987年。

2013年10月18日金曜日

ナイトバザールのお菓子売り


チェンマイのナイトバザールに追い付け、とばかりに開かれたチェンラーイナイトバザールだけに、地元の人の熱の入れようも相当なものだったようだ。
夜の早いチェンラーイの街も、夜更かしをする人が目立つようになった。
肝心の売り上げのほうは厳しいようだったが、どの売り子も精一杯めかしこんで張り切っていた。
チェンラーイ、1987年。

2013年10月17日木曜日

できたばかりのナイトバザール



宿のおばさんから、チェンラーイにもナイトバザールができたことを教えられた。
場所は、時計塔から東へ行き、南へ入る路地の一帯だ。おばさんは、
「チェンラーイも、チェンマイと同じになった」
と誇らしげだったが、ほんの100mほどに、日用品を売る露店が並んでいるだけ。客も当然地元の人ばかりだ。もっともこの頃は、チェンラーイにはまだ外国人観光客は少なかった。
これは、試しに開いてみただけのナイトバザールだったようで、 ほんの一時期のみで閉鎖されてしまった。
チェンラーイ、1987年。

2013年10月16日水曜日

プールを独り占め


チェンラーイでは、相変わらず自転車でリリーパークに遊びに行くことが多かった。
この広々とした公園が賑わうのは、学校がひけてからのほんの一時。子どもたちが下校途中に寄っていくのだ。
それ以外の時間帯は閑散としている。プールもこのとおり、独り占めの状態だ。
チェンラーイ、1987年。

2013年10月15日火曜日

市バスで市内観光


当時のバンコクでの過ごし方は、市バスを利用しての観光が楽しかった。市バスはどこまで乗っても均一料金で、バスの番号さえ覚えておけば、まず問題なく同じ場所に戻って来れる。
目的など決めずにバスに乗り、気が向いたところ、面白いものがありそうなところで降車する。 その辺りを歩き回って、降りた場所の反対側から同じ番号のバスで帰る。
こんな風にして遊んでいると、あっという間に1日が終わってしまった。
写真は、49番のバスで行ったワット・イントラウィハーン。
バンコク、1986年。

2013年10月14日月曜日

もう一つの定宿メーコックビラ


チェンラーイでのもう一つの定宿が、メーコックビラだった。
スクニランホテルとの住み分けは、短期で移動するときは街中にあるスクニラン、ゆっくり長居をするときは郊外のメーコックという具合だった。
元学校だったという敷地は広く、教室を改造した長屋部屋、職員の宿泊に使ったという奥の二階建て、そして入って右手には小さなバンガロー、レセプションの上はユースホステル客向けの大部屋と、使い勝手も様々だった。
このゲストハウスを知ったきっかけは、全く偶然のことによる。船着き場に行こうとして、間違えて入り込んでしまったのだ。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月13日日曜日

初恋の子に似ている


この年、メーサーイ写真少女たちのリーダーを務めていた少女に、何故か惹かれるものを感じた。記憶を辿ってみると、小学生の頃好きだったA子ちゃんに似ているのに気がついた。目の感じ、口元など、まるで生き写しのようなのだ。
この3カ月後、メーサーイを再訪。また会えることを楽しみにしていたのだが、彼女はもうこの場所には来ていなかった。
メーサーイ、1986年。

2013年10月12日土曜日

メーサーイの写真少女たち


前の年から見かけるようになった、メーサーイのタイ最北地点の写真少女たち。この年には、だいぶ人数も増えて、営業のほうも順調のようだった。
しばらく話した後、集まってもらって記念撮影。一人5バーツのつもりで、
「いくらになるかな?」
「あなたは友だちだから、お金は要らないの」
「ありがとう」
「日本人でしょ。タカチーは知ってる?」
タカチーとは、後に「世界美少女図鑑」という本で、彼女たちを紹介した三輪隆氏のことだった。
メーサーイ、1986年。

2013年10月11日金曜日

国境の川 1986年


タイとビルマを隔てるメーサーイの川。ちょうど中間点が国境と聞いていたので、タイビルマ橋のほぼ中央から下流側を写してみた。
右手タイ側には建物が見えるが、左手ビルマ側にはほとんどそれらしいものは見当たらない。
この後、川は両岸から埋め立てられ、どんどん川幅が狭まっていくことになる。それとともにタイ側では、雨季に洪水が頻発するようになった。
メーサーイ、1986年。

2013年10月10日木曜日

メーサーイ行きのバス


チェンラーイからメーサーイへは、小型バスが運行していた。
初めて利用した1983年のときは、あまりのボロさに驚いた。本当に動くのかと不安になるような代物だが、まあ普通に走ってくれた。それどころか、車内の手入れは意外と行き届いていて、座席なども上手く補修されていた。
運賃は14バーツと、当時の手帳に書かれている。単なる移動の手段とするなら、見映えはどうでも、格安で利用できる実にありがたいバスと思った。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月9日水曜日

タウナギはタンブンのため


市場の魚屋で、タウナギが売られていた。
食用にするのか訊いてみたら、川に放すためと説明された。そのときは訳が分からなかったが、後に本で読んで、小鳥や魚の命を救うことで、徳を積むことができるということを知った。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月8日火曜日

売られている魚


市場の魚屋で売られている商品を撮ってみた。いずれも、ナマズ、コイの仲間だろう。
大きめのナマズは、輪切りにして売られていく。それを見て、バウムクーヘンを連想してしまった。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月7日月曜日

市場に並ぶ魚


チェンラーイ中央市場の散策は飽きない。
朝、昼、夕と、それぞれ雰囲気は異なる。朝は仕込み用の食材を売る店が多く、昼は買い物や食事の客が多い。夕方は持ち帰り惣菜を売る店で賑わう、といったぐあいだ。
魚屋には、海が遠いので淡水魚ばかり、なかでもナマズの類いが多く並んでいた。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月6日日曜日

チェンラーイの子どもたち


子どもたちも、とても人懐っこい子が多かった。
道を歩いていると、下校中の小学生と目が合った。にっこり微笑むと、それだけでコミュニケーションが始まる。カメラを見ると、撮ってくれとせがまれた。
天真爛漫な笑顔と言うべきだろうか。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月5日土曜日

人懐っこいチェンラーイの人びと


チェンラーイでは、男女問わず、人懐っこい人に多く出会った。道を歩いていても、気軽に声を掛けられる。
飲食店に入れば、必ずと言って良いほど、隣席から声が掛かる。
「どこから来たの?」
「日本だよ」
「珍しいね。一人?」
といった具合に、会話が続いていく。
同じテーブルに招き入れられた経験など、数えきれないほどだ。
チェンラーイの人たちのこの気質のお陰で、この街にますます惹き寄せられるようになっていった。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月4日金曜日

ホーナリカーレストランにて


スクニランホテルの前に、ホーナリカーというレストランがあった。当時、街一番という評判の店で、夜の早いチェンラーイの街でも、かなり遅い時間まで営業していた。メニューは、中華とタイが半々くらいだったろうか。
店構えは立派で、店内には鉢植えや池があったが、蚊が多いらしく、席に着くと、メニューといっしょに蚊取り線香を置いてくれた。
地元の人からは、「ウエイトレスも美人だよ」と聞いていたが・・・
チェンラーイ、1986年。

2013年10月3日木曜日

チェンラーイ-バンコクのバス便


チェンラーイとバンコクの間は、タボンファームツアーという会社が運行していた。
日本の観光バスのお下がりのようで、4列シートで45人以上は座れたと思う。ちょうど学校の遠足に使うバスのイメージだ。
当時は道路状況も良くなく、かなりの山道を通らなければならなかった。タイ人は車に弱い人が多く、床に置いたバッグが、前の客の吐瀉物で汚れてしまったこともあった。
チェンラーイの発着は時計塔のまん前。実に便が良かった。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月2日水曜日

部屋の片隅に


果物好きにとっては、タイのフルーツはたまらなく美味しく感じられた。この頃は、ドリアンとマンゴスチンの季節には、ほとんど毎日のように食べていただろう。
タイ人に倣って、メコンをリポビタンで割って飲んだりもしていた。
スクニランホテルの片隅にて。
チェンラーイ、1986年。

2013年10月1日火曜日

リリーパークという公園


自転車で遊びに行く先はいろいろあった。なかでもお気に入りは、リリーパークという公園だ。
個人の経営によるというこの公園は、スーパーハイウエイの西側にあった。緑が多く、整備も行き届いていて、寛ぐことができた。
散策をしたり、飲み物を傍らに本など読んでいれば、とても贅沢な時間を過ごしているような気になったものだ。
チェンラーイ、1986年。