2013年12月31日火曜日

同席した姉妹


ナイトバザールのドリンクコーナーでカールスバーグを飲んでいたら、同席した女性に話しかけられた。
少々酔っ払っていたので、話の内容は全く憶えていない。記憶にあるのはただ一つ、二人組が姉妹だったということだ。
カールスバーグは20バーツ(当時約80円)ほどと安く、ビールはこればかり飲んでいた。
チェンラーイ、1995年。

2013年12月30日月曜日

ナイトバザールドリンクコーナーの売り子


整備されたナイトバザールには、新しい店もいろいろとできていた。ステージのすぐ脇にはドリンクコーナーがあり、値段も手ごろで商売繁盛の様子だった。
店の造りや売り子の服装も洒落ている。
チェンラーイの街自体、この頃からだいぶ変わって行ったような気がする。
チェンラーイ、1995年。

2013年12月29日日曜日

ナイトバザールにステージができていた


1995年3月、チェンラーイナイトバザールに立派なステージが設置されていた。場所は現在と同じ場所で、高さは50cmほどだったろうか、簡単に上れるような低い位置だった。
煌びやかな照明に誘われるように、飽きもせずに夜な夜な出没したことを憶えている。
チェンラーイ、1995年。

2013年12月28日土曜日

時には豪勢な夕食を


メーコックビラ滞在中の夕食は、近くの市場で惣菜を買い込んでくることが多かった。
一人分ならおかずは2~3品で十分だ。この日の食卓がやけに豪勢なのは、隣室にチェックインした女性と、一緒に食べることになったからだ。
旅人同士の交流は、ゲストハウスならでは楽しみだ。
チェンラーイ、1995年。

2013年12月27日金曜日

砲弾も撃ち込まれたらしい


1995年3月20日、メーサーイ国境で起きた銃撃戦は、相当大規模なもののようだった。国境橋から西方面では、砲弾も撃ち込まれたようで、、まだ白煙が立ち込めていた。
メーサーイ、1995年。

2013年12月26日木曜日

ビザ延長に行ってみると


1995年3月20日、ビザの延長手続きのためにメーサーイに行ってみると、国境で何やら事件が起きた気配がする。
この前日に、ミャンマー軍に追われたカレン族の兵士がタイ側へ逃げ込み、銃撃戦が行われたという。そのため、即日国境閉鎖。
川沿いの山の斜面にあるゲストハウスのレンガには、まだ熱そうな銃弾の跡が残っていた。
メーサーイ、1995年。

2013年12月25日水曜日

チェンコーンの学習塾にて


前年に知り合った2人の友人と共に、チェンコーンへドライブに出かけた。車を停めたちょうどまん前が学習塾になっていた。先生に招き入れられ、しばし生徒たちと交流。
授業は、和気あいあいのうちに、各自がマイペースで課題に取り組んでいた。
授業料は、1回ごとに20バーツ(当時約80円)とのことだった。
チェンコーン、1994年。

2013年12月24日火曜日

ニンニク売りの少女


チェンラーイの市場では、子どもが親の手伝いをする姿は、ごく当たり前に見かける。ときには、子どもだけで店番をしているときもある。そんなときは、まだ小さな子でも、立派な商人の顔つきに見えてくる。
チェンラーイ、1994年。

2013年12月23日月曜日

菓子屋の店番少女


雑貨屋では、駄菓子も売られていた。こちらの売り場は、雑貨店主の妹さんが店番をしている。
なるほど客が子どもなら、年の近いお姉さんの店番がぴったりかなと思いきや、意外と大人の客も来るので驚いた。
チェンラーイ、1994年。

2013年12月22日日曜日

雑貨屋の娘さん


タイでは長屋形式の店舗を良く見かける。それも、一店舗あたりの間口は、4mと小規模な店が多い。こういう店は賃料も安く、僅かの資金で簡単に商売を始めることができる。
この娘さんも、若くして雑貨屋の立派な店主だ。
チェンラーイ、1994年。

2013年12月21日土曜日

完全水洗のタイ式トイレ


安宿利用者にとってはお馴染のタイ式トイレ。
もちろんティッシュなどという無粋なものは用意されていない。手桶に汲んだ水を、お尻にかけながら、手で洗う。最後に、排出物も、自分の手も、水で洗い流す。完全水洗式だ。
実は、ティッシュを使わないことには、ずいぶん抵抗があった。ふっ切れたのは、メーサーイの食堂で、急に便意をもよおしたときだ。食堂のトイレがこの形式だった。気が付いたときはもう遅い。「えいやっ」とばかりに、自分の左手を使った。意外にも気持ち良く、以後あまり抵抗感はなくなった。
メーサーイ、1993年。

2013年12月20日金曜日

メーサーイプラザゲストハウス室内


メーサーイプラザゲストハウスは、川に面した山の斜面にへばりつくように建てられていた。ミャンマー側が一望できる眺めは素晴らしく、室内もなかなか洒落た造りになっている。
しかし、雨季は風通しが悪く、いつまでも湿気が抜けなくて困った。それでも1泊100バーツ(当時約400円)は手ごろで、日本人の常連客は多かった。
メーサーイ、1993年。

2013年12月19日木曜日

メーホンソーンの池の畔にて


メーホンソーン空港はほぼ街中にあり、空港を出て西へ進めばすぐに市場が見えてくる。メーホンソーンの街自体、南北に走る街道沿いだけが賑やかな、こじんまりとした街だった。
街中に川は見当たらなかったが、大きな池があった。対岸にはビルマの影響を感じさせる二つの寺院が並んでいる。ワット・チョーンカムとワット・クラーンだ。
メーホンソーン、1993年。

2013年12月18日水曜日

2年後のミス高校


仲良し二人組。このときはまだ中学生だが、この2年後、青シャツの子はミス高校に選ばれたそうだ。
チェンラーイ、1993年。

2013年12月17日火曜日

クリーニング屋の店員


同宿の日本人が、ジーパンをクリーニング屋に頼んだら、「アイロンまでかけてくれた」と、感激していた。もちろん、「洗濯だけ」と言えば、そのようにしてくれるのだが・・・
近年、店頭に洗濯機を置いたクリーニング屋が目立つようになった。コインを入れれば、脱水までしてくれるというもので、旅人にとってはありがたい存在だ。
チェンラーイ、1993年。

2013年12月16日月曜日

中華まんにもいろいろある


行きつけのラーメン屋で、まんじゅうを売るようになっていた。中華系の店なので、肉まんかと思ったら、他にもあるようなので、試しに買ってみた。
もちろん肉まんも買ったが、甘味系のインパクトが強かった。小豆餡とカスタードクリームだが、クリームにココナッツを使っているのか、独特な香りが気に入った。
チェンラーイ、1993年。

2013年12月15日日曜日

ドリンクコーナーの看板娘二人


街のほぼ中心にある(当時唯一の)デパート、エディソンの一角に、ドリンクコーナーが設けられていた。
夜の暇な旅人は、こんな所に出没するしかない。
こういう小さな店ほど、客と売り子の距離は近く、長居をしてもお構いなし。馴染みの客には、持参のお菓子を振る舞ってくれたりもした。
チェンラーイ、1993年。

2013年12月14日土曜日

肉を食べたいとき


タイでは焼き鳥と豚肉が美味しい。残念ながら牛肉は(少なくとも昔は)、あまり美味しいものがなかった。
ときどき、無性に肉にかぶり付きたい気分になることがある。そんなときは、焼き鳥は切らないで丸ごと買ってくる。
この日の写真には、パイナップルが一緒に写っているが、肉の消化を助ける効果を期待して買い込んだものと思われる。
メーコックビラにて。
チェンラーイ、1993年。

2013年12月13日金曜日

ナコーンラーチャシーマー市場外にて


おそらくどこの市場も同じと思うが、屋外の売り場のほうが場所代が安く、そのぶん商品も安く売られている。そのため、大量に仕入れる食堂などは、屋外で買い物をする傾向にあるようだ。
売り子も、お喋りをしながら、のんびりと客を待つ。
ナコーンラーチャシーマー、1992年。

2013年12月12日木曜日

ナコーンラーチャシーマー市場内にて


何処の街に行ってもも欠かさないのが市場探索だ。売っている物も興味あるが、その土地の活気や匂いが、肌で感じられる。
ナコーンラーチャシーマーの市場内は、落ち着きがあり、明るく小奇麗な印象だった。
ナコーンラーチャシーマー、1992年。

2013年12月11日水曜日

タオ・スラナリー像の前で


タオ・スラナリー像は、ホテルから歩いて10分ほどの距離にあった。スリヨータイと並び称されるタイ4大女傑の一人、モー夫人(タオ・スラナリー)の功績は、こんな風に伝えられている。
ラオス軍に攻め込まれ、その勢いにタイ軍が窮地に追い込まれてしまったときのこと。領主の妻であった夫人は、同士の女性を率いてラオス軍の陣地に乗り込み、兵士に酒をもてなし酔い潰してしまう。そして敵の戦力を殆ど不能にしておき、夫の率いる軍を招きいれ勝利に導いたという。その功績により、ラマ3世からタオの尊称を与えられた。
カラバオのヒット曲にも、彼女のことを歌った作品がある。
地元の英雄を称えるタイ人の気持ちの強さには、どこの街に行っても感心させられる。
ナコーンラーチャシーマー、1992年。

2013年12月10日火曜日

ナコーンラーチャシーマーへ立ち寄る


ウボンラーチャターニーからバンコクへの帰途、ナコーンラーチャシーマーに立ち寄った。ウボンからはバスを使ってみた。9:30に出発、ナコーンラーチャシーマー到着は16:00。バス代は184バーツ(約920円)。
ナコーンラーチャシーマーでは、バスターミナル近くにあったトウキョウホテル一泊380バーツ(約1900円)に宿をとった。この地は別名コラートと呼ばれるが、これはこの辺りの平原の呼称だそうだ。
また、この街の最高級ホテル、ロイヤルプラザの崩落事故があったのは、翌1993年のことだった。
ナコーンラーチャシーマー、1992年。

2013年12月9日月曜日

ウボンラーチャターニーの街


1992年8月、友人と、タイ東のはて、ウボンラ―チャターニーまで列車で行ってみた。
この街は、ムーン川を渡ったところから、北へ拡がっている。川沿いに大きな市場があるので、その近くにあるラーチャタニーホテルを拠点とした。一泊280バー ツ(当時約1400円)も、二人でシェアすれば安上がりだ。
地方都市では、市場の近くに滞在するのが便利だ。市場を利用すれば、食事も買い物も安くあがる。
8月は雨期真っ只中。フルーツの美味しい季節でもある。ドリアンやザボンを買いこみ、部屋の冷蔵庫で冷やして、心ゆくまで楽しんだ。
当時の地方都市の移動手段は、サムローが一般的だった。市場の外には、客待ちのサムローが並んでいる。客は、一抱えの荷物を足下に置いて、席に納まる。
ウボンラーチャターニー、1992年。

2013年12月8日日曜日

ピン川に架かる吊り橋


1991年、再びタークを訪れてみた。
このときは、友人二人も同行し、賑やかな旅となった。たまには同行者のいる旅も良いもので、食事のメニューなど、とても変化に富んだものを選ぶことができる。
8月、雨季まっただ中、ピン川の水は溢れんばかりだった。
ターク、1991年。

2013年12月7日土曜日

ムーイ川市場宝くじ売りの少女


タイでは、人の集まるところには、必ずと言っていいほど宝くじ売りがいる。
ここムーイ川市場では、幼い少女が宝くじを売っていた。宝くじの横には、自宅の庭に生ったドリアンが置かれている。もちろん、これも売り物だ。
メーソート、1991年。

2013年12月6日金曜日

ムーイ川市場の売り子


ムーイ川市場に入ってみると、ミャンマーから運び込まれた商品を売る店が連なっていた。
売り子は、中国系の顔立ちで、しかも美形の女性が多かった。
メーソート、1991年。

2013年12月5日木曜日

ムーイ川の渡し船


海と川のある土地で育ったせいか、川の流れを眺めるのが好きだ。まして国境の川ともなれば、興味深さも手伝って、時間の経つのを忘れてしまうほどだ。
この国境も、地元の人は比較的自由に行き来できるようで、舟に乗る人はタイ人、ミャンマー人、半々くらいだったろうか。ミャンマー人はロンジーを穿いているので、すぐに区別がついた。
メーソート、1991年。

2013年12月4日水曜日

ムーイ川市場入り口


右手に下りるとムーイ川。川向こうのミャンマーからは、舟でたくさんの荷物が運ばれてくる。
このムーイ川市場には、ミャンマーから入ってきたそれらの物が、商品として並べられていた。おもにタイ人商人たちが、仕入れに買い込んでいるようであった。
メーソート、1991年。

2013年12月3日火曜日

ムーイ川へ


日本にいると、国境を実感することはほとんどない。海の果てを眺めて、彼方に別の国が存在するなどと思うには、相当な想像力が必要になってくる。
ところがタイにいると、端っこに旅をすれば、すぐに国境にぶち当たる。日本では味わえない、非日常の世界を垣間見ることができるのだ。
ターク県とミャンマーは、とても広い地域で接している。メーソートの街外れ、ムーイ川もミャンマーとの国境だ。
立て看板に「水平面198m」と書かれているが、おそらく川幅のことだろう。
メーソート、1991年。

2013年12月2日月曜日

メーソートの国境地帯


外国人がミャンマーに入国できるようになったのは1998年から。もちろんこのときは、まだ国境は開かれていない。
居合わせた警備兵は銃を抱えていたが、なかなか気さくな性格で、写真はもちろん、付近を歩き回ることも自由にさせてくれた。
メーソート、1991年。

2013年12月1日日曜日

国境の街メーソート


メーソートでは、バス停近くのファーストホテル140バーツ(当時約840円)に投宿。
雨期のメーソートは、ひっそりとした静かな街だった。
国境の街というものは、それまでもいくつか見ていて、何処も多かれ少なかれあやしげな雰囲気を感じさせられたものだ。このメーソートも例外でなく、特に ミャンマーからの出稼ぎ女性が目立った。
ふらりと入った食堂の奥には、十数人の若い女性が待機していて驚かされた。また、街の中心にあったダンスホールに入ると、壁際にずらりと女性がたむろしている。好きなジルバのリズムが流れていたので、適当に女性をエスコートすると、全くステップが踏めない。
皆、それが当たり前のようで、ようやく、「ああ、ここはダンスを楽しむ場ではないんだな」と納得したものだ。
メーソート、1991年。