2017年12月30日土曜日
FIGHTO JAPAN
東日本大震災の日は、チェンラーイ滞在中だった。
震災は、タイでも大きなニュースになっていて、
「あなたの家や家族は大丈夫ですか?」
と、何人のタイ人に声を掛けられたことだろうか。なかには、ほんの通りすがりの人からのこともあった。皆、テレビを視て、心配してくれていたのだ。
帰国の折りにバンコクに立ち寄ると、ショッピングセンター内で、日本を応援する催しが行われていた。何故か「FIGHTO」と書かれているがー。
ごく普通の人が、募金箱に次々とお札を入れていく姿が印象的だった。改めて、タイは親日国だと思ったものだ。
バンコク、2011年。
2017年12月29日金曜日
バンコク中華街のラーメン屋
バンコク中華街にある「バミーチャップガン」のラーメンは、値段の割りに量が多く、特に麺の上にゴロゴロと並ぶ豚肉の量が半端ではない。
当時の値段で、普通盛り35バーツ、大盛り40バーツ。かなり大食いの僕でも、普通盛りでだいたい満足できた。さすが「労働者ラーメン」だ。
ところで、この店名「バミーチャップガン」は、気を付けていると他でも目にすることがある。何店か試しに入ってみたが、別に系列店ではない。ちょっと食べごたえのあるラーメンを売り物にする店が、好んで使っている一般的な店名のようだ。
バンコク、2011年。
2017年12月28日木曜日
2017年12月27日水曜日
2017年12月26日火曜日
ゴールデントライアングルへ輪行
この日はチェンセーンまでバスで行き、チェンセーン市内からゴールデントライアングルまでサイクリングを楽しんだ。
この自転車は、バンコクの専門店で買ったもの。軽い車体と、折り畳めることで、ちょっとした旅の良き相棒として活躍してくれた。
当時、タイ国内での輪行に使っていた「GIANT Halfway 16R」とともに。
チェンセーン、2011年。
2017年12月25日月曜日
ゴールデントライアングルの表示
チェンセーンから自転車で、ゴールデントライアングルへひとっ走り。
久し振りに訪れた三国を見渡す地点は、だいぶ様変わりしていた。その昔は小さな木の標識のようなものが立てられていただけだが、今はこんな洒落たものが設置されている。
三国の位置関係がひと目で分かって、なかなか良いものだと思った。
チェンセーン、2011年。
2017年12月24日日曜日
タイの袋ラーメン三種
タイで、袋入りインスタントラーメンが普及したのは、いつ頃からだろうか。少なくとも、僕がタイ通いを始めた1980年台初頭には、一般的になっていたと思う。
ある日、市場食堂に座っていると、かなりくたびれた服装の男性が入ってきた。ホームレス風のその男性は店主とは顔なじみのようで、慣れた様子で手にしたものを店主に渡した。渡されたものは袋入りインスタントラーメンだ。店主は、中の麺を湯通ししてスープに入れると、その器を男性に手渡した。ついでに少しの具材も入れられていた。
つまり、ホームレス風の男性は、自分で買ってきた袋ラーメンを調理してもらい、スープと具材を添えてもらったわけだ。もちろん器と箸も借用している。
食べ終わり店を出るまで観察してみたが、男性はお金を払うことはなかった。もちろん礼を言うわけでもなく、店主の方も当たり前のように振る舞っていた。
怪訝そうな表情の僕に、店主は、
「助け合いだよ」
と一言だけボソッと言った。
さて、写真の袋ラーメンは、タイでよく見掛けるメーカーのものだ。
上から時計回りに、ヤムヤム、マーマー(ママー)、ワイワイ。
2017年12月23日土曜日
喉に効く薬ボータン
乾季の北タイは喉に厳しい。ほとんど雨が降らないため空気が異常に乾燥するのだが、本来禁止されているはずの野焼きによる大気汚染、更には近年ではチャイナから飛んでくるPM2.5とかいう汚染物質の影響もある。
そこで喉に優しい薬が欲しくなってくるのだが、喉薬というと先ずタイ人に勧められるのがこの「ボータン」だ。
紙パックに封入されている焦茶色の薄い板状の薬は、一見チョコレートのようにも見える。これを少しずつ割って口に含むのだが、漢方の香りが喉に心地よく感じられる。よく旅行者が買い求める喉飴のような甘さがないのが嬉しく、繰り返し舐めていても実に爽快だ。
粒状にされたボータンも売られているが、お勧めは断然こちら、昔ながらのものだ。量を調整できるし、だいいち割安だ。
2017年12月22日金曜日
2017年12月21日木曜日
バレンタインで一休み
メーサーイからタチレクに入ると、すぐにT字路にあたる。そこを東にしばらく行くと、右手に、この街としては小奇麗な食堂兼喫茶店が目に付く。その店がバレンタインだ。
外見の割りに値段も高くはないので、タチレク散歩の途中によく立ち寄った。
旅行者の行動範囲はボーダーから5kmと定められているので、この日もそのぎりぎりまで行っての帰り道だった。先ずは喉の渇きを癒やすミルクティー(現地語ではラペイエッと言う)。もともとテーブルに置かれているお菓子類は、食べた分だけ払えば良い。手を付けなければ、もちろん払う必要はない。ポットのお茶は、自由に飲むことができる。
さて、一休みしたら、チェンラーイに戻るとするか。
タチレク、2011年。
2017年12月20日水曜日
タチレクのパスポート発給所
この当時、メーサーイからミャンマー国タチレクに出ると、タイ国再入国時に30日の滞在が認められていた。ミャンマー入国時に10ドルまたは500バーツの手数料を取られるのだが、隣国にビザを取りに出る手間を考えたら、ノービザでタイに滞在する日本人にとっては実に有り難いことだった。
さて滞在延長にミャンマー側に入り、タチレクの街を散策していると、すごい行列に出くわした。上の看板からすると、パスポート発給所のようだが、タチレクからこんなにたくさんのミャンマー人が観光旅行とも思えない。
並んでいる人に尋ねてみると、外国で働くための書類をもらうのだ、とのこと。
チェンラーイ県では、たくさんのミャンマー人が働いているが、そのために必要な書類を申請・受領する人の列なのかもしれない。
タチレク、2011年。
2017年12月17日日曜日
雲南餃子の小籠包
この日は、メーサーイ餃子通りにある雲南餃子の店で、小籠包を注文してみた。値段は、小籠包に麺を頼んで70バーツ。
さてこの小籠包、皮の中から肉汁がジワーっと、というグルメ番組のシーンを期待したのだが、こういう期待は得てして破られるもので、このときも全く期待外れのものであった。
小籠包の底が、下に敷いてある植物の茎のようなものにくっついてしまっていて、箸でつまみ上げた瞬間に底の皮が破れてしまうのだ。あわれ肉汁は、下に敷かれた植物に染み込んでしまうだけ、あ〜あ! 肉汁の枯れた小籠包など、冷凍食品の肉まんのようなものではないか。
いやいや、もしかすると、この状態で肉汁を失わない上手い食べ方があるのかもしれない。でも、仮にそのような技術が存在するなら、店の方も新参客に教えて欲しいものだった。
メーサーイ、2011年。
2017年12月16日土曜日
メーサーイの餃子通り
メーサーイの国境へ続くパホンヨーティン通りを東に入るソイは、旅人の間では餃子通りと呼ばれていた。
ソイに入ってしばらく行くと、手前に台湾餃子の店、1軒置いて雲南餃子の店と、ほとんど連なって餃子屋があるからだ。また、この先には、あまり知られていないが、屋台の餃子屋も出ていた。
なかでも良く食べに行ったのは、台湾餃子の店だ。親父さんが愛想が良く、焼き餃子が特に美味しかったからだ。何年か前にこの親父さんも亡くなってしまい、しばらくは娘さんが店を切り盛りしていたが、今は店自体が消えてしまった。
一番奥の屋台店の焼き餃子も気に入っていたが、時間帯によって他に移動していることが多かった。
メーサーイ、2011年。
2017年12月15日金曜日
メーサーイのヨーグルト屋
この年、チェンラーイ歩行者天国で、人気のヨーグルト露店があった。
あまり美味しいので、普段はどこで売られているのか、売り子に尋ねてみると、
「メーサーイに店があります。国境の右側を少し行ったところです」
滞在延長のために、イミグレに出かけた折に探してみたら、すぐに分かった。
「いつも歩行者天国で食べてますよ」
と言うと、とても歓迎された。
店で座っていただくヨーグルトは、また格別な味わいだった。店にいる間も、持ち帰り客がひっきりなしに来店し、その人気ぶりがうかがわれた。
残念ながら、この翌年には店がなくなっていた。随分流行っていたので、何処かに移転したのだろうか。それとも閉店してしまったのか、知る由もない。
メーサーイ、2011年。
2017年12月14日木曜日
2017年12月12日火曜日
美味しくなったメーサーイのイチゴ
イチゴは温帯の植物なので、タイ国内では北部でしか採れないのだろう。イチゴが、タイ最北に位置するチェンラーイ県メーサーイ郡の特産であることも当然のことだ。
一昔前(いや、二昔くらいかな)のイチゴといえば、形は不揃いで、甘みも水っ気もなく、ただ酸っぱくカサカサとした代物だったが、近年はだいぶ美味しくなってきている。写真の通り、粒もまあまあ揃っている。
それでも、日本に来たタイ人に言わせると、日本のイチゴは本当に美味しいそうだ。
メーサーイ、2011年。
2017年12月8日金曜日
取り壊されていたメーサーイプラザゲストハウス
この年、チェンラーイで、旧い友人からメーサーイプラザが無くなったと聞いた。
そう度々利用したわけではないが、そこそこゆかりのある宿だったので、メーサーイに出掛けたついでに、その様子を確認してみた。
なるほど、バンガローが立ち並んでいた斜面は、もう全くその面影はなくなっている。
地球の歩き方1999~2000版には、
「川に面した丘の斜面に張り付くように建てられた古いゲストハウス。部屋の窓からはミャンマー側がよく見える」
と書かれている。
また、当時の宿代は、トイレ・シャワー付きで100~120Bとなっている。
特に居心地が良いとは言えなかったが、定宿としている日本人が多かったので、なんとなく行ってしまうという宿だった。やはり長期滞在者にとっては、日本語での話し相手は有り難いものだ。
メーサーイ、2011年。
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