2014年10月31日金曜日

少女店主


山岳民族の市場では、服や織物、小物入れなどが売られていた。この少女も手作りの織物を売っている、立派な店主だ。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月30日木曜日

ラオスの笑顔


北タイの生活に染まっているせいか、ラオスでは笑顔が少ないと感じた。それでも10代の女の子は別で、片言のラオス語で話し掛けるとこの通り、屈託のない笑顔を見せてくれた。この世代の女子が、ちょっとしたことで笑ってくれるのは、世界共通かもしれない。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月29日水曜日

山積みのフランスパン


ラオスは、第2次世界大戦をはさんで、2度にわたってフランスの植民地になっている。フランスの影響は大きかったようで、ライスワイン(日本酒のようだった)とフランスパンは、特に美味しく感じられた。
朝の市場でも、山積みにされたパンが売られていた。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月28日火曜日

空路でルアンプラバンへ


ルアンプラバンへは2000年、チェンライから空路で訪れた。空港で30ドル払うと、その場でビザが発給された。
飛行機は、格安航空会社として参入したばかりのエンジェル航空。チケット代は5380バーツ(当時約17700円)。チェンラーイ空港を無事飛び立ち水平飛行にはいると、機長による乗客への挨拶回り が始まった。乗務員室から出てきた機長の姿を見たとたん、背筋を冷たいものが走る気がした。とうに70を過ぎていそうな、いやもしかすると80に手が届くのではないかという老機長だったからだ。通路を歩く足取りも心なしかおぼつかないようで、後ろを歩くアテンダントが病人の付添人のように見えたほど。
ところが、老機長イコール大ベテランだったようで、無事ルアンプラバンの空港に到着。
ニュー・ルアンプラバンホテル45ドルに投宿、早速街歩きに出た。
舗装道が少ないせいか、乾季のルアンプラバンは埃っぽい。幸いなことに車は少なく、人の歩みもゆっくりで、時間もゆっくり流れていくような気がした。この落ち着ける街は、それ自体ユネスコの世界遺産に登録されているのだ。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月27日月曜日

馬が放牧されていた


ドイメーサロンをバイクで走っていると、放牧されている馬に遭遇した。持ち主の姿はどこにも見えなかったが、特に人を警戒するでもなく、マイペースで草を食んでいた。
牛の姿はよく見掛けるが、馬を見掛けるのは珍しい。
チェンラーイ、2000年。

2014年10月26日日曜日

ドイメーサロンの焼き畑


近年は禁止されているようだが、昔は焼き畑が盛んに行われていた。今は茶畑になっているドイメーサロンの山肌も、この当時は焼かれて赤茶けた色になっている。
北タイの乾季は、焼き畑のおかげで、スモッグのような霞がかかることが多かった。
メーファールアン、2000年。

2014年10月25日土曜日

カメラが一般的になってきた


著しい経済成長を遂げたタイでは、カメラもごく一般的な持ち物になってきた。ちょうどこの2000年頃は、チェンラーイ辺りでも、このように自前のカメラで記念撮影をする姿をよく見掛けた。
因みに、タイの王室もカメラ好きなようで、国王はキャノンEOSを、王妃はやはりキャノンPowerShotを愛用しているらしい。当然国民の持つカメラも、キャノンが圧倒的に多い。
チェンラーイ、2000年。

2014年10月24日金曜日

捨てられていったバナナ


メーコックビラの庭の一角には果樹が植えられていて、収穫物は常連客に振舞われた。旅人は熟していく果実を見やりながら、あと何日で食べられるか、もう少しチェックアウ トを延ばそうか、などと言い合ったものだ。あるときは経営者の奥さんが、あるときは使用人のおばさんが、何も言わずに部屋の前のテーブルに置いていってくれる。
ある日、チェックインしたばかりの日本人の女性グループが、僕のテーブルのバナナを見ている。「ここで採れたものです、よかったらどうぞ」と言うと、一房すべて持って行ってしまった。日本では、採れたてのバナナを食べる機会など、めったにないのだろう。
翌日の昼、部屋掃除を終えた使用人のおばさんが、僕に昨日のバナナを見せる。チェックアウトした部屋のゴミ箱に捨てられていたそうで、少しゴミも付いているようだ。おばさんは「勿体無い」と言う。一房10本以上あるのに、食べたあとは2本だけ。おばさんの寂しそうな目を見ながら、僕は黙ってバナナを受け取った。
食べきれる分だけ持っていけばいいのに、と最初は腹が立ったが、いやいや、もしかすると予定を変更して、早めにチェックアウトしたのかもしれない、と思い直すことにした。それならば、部屋に残されていても仕方ないだろう。旅人にとっての予定は、未定でしかないのが常。
捨てられたバナナは、翌日までに完食した。 使用人のおばさんは、いつもと変わらず、今度はパパイヤを届けてくれた。
チェンラーイ、2000年。

2014年10月23日木曜日

我が長期滞在の部屋


1987年に出版された“地球の歩き方・タイ”に紹介されたおかげで、日本人に人気の宿として大ブレイクしたのが、このメーコック・ビラというゲストハウス(この宿との出会いは古く、1983年からの付き合いとなる)だ。
客の増加を見込んで、ちょうどその頃に増築された東棟が我が長期滞在の部屋となっていた。水シャワーのみだが、その分100バーツ(当時)と割安だった。
部屋の広さは8畳に足りないくらいだが、2~3ヶ月一人でいても飽きないように小物を揃えてある。まずは小型の液晶テレビ。日本とタイは電波方式が違うので、秋葉原で海外用を買ってきた。一時帰国ということで、パスポートを見せたら、日本人なのに免税価格が適用された。そしてラジカセ。NHKの短波放送を聴くのは、欠かせない朝の日課だ。もちろん、お気に入りのカセットも用意しておく。文庫本は、読み終わったら宿に寄贈していく。オーナーは勿論、他の日本人宿泊客も喜んで くれる。そして湯沸かし器とマグカップは、お茶とコーヒーを楽しむためだ。
地方の宿に泊まると、蟻と戦わなければならないときがある。特に、前の宿泊者が部屋で甘い物など食べていたら、その部屋はもう確実に蟻の標的になっていることだろう。そんな部屋で買い置きの食料など置いておいたらひとたまりもない。そこで、食料を置く棚の脚を水をはった容器に入れておく。 こうしておけば、貴重な食料を蟻から守ることができるのだ。
惣菜屋台で買ってきて食事をするために、最小限の食器もあると便利だ。外食も良いが、部屋で食べるのもまた別な良さがある。
あまり使わないものや貴重品は、備え付けの木箱に鍵をかけてしまっておけば安心だ。
一枚の写真に納まってしまう、この程度の身の回り品で、とても豊かなゲストハウス生活を楽しむことができた。
チェンラーイ、2000年。

2014年10月12日日曜日

タイからの輸入品が通る


タチレクで売られている物は、タイから運び込まれたものが圧倒的に多い。
輸送コストを抑えるためか、荷台が傾くほどたくさん積まれている。これで倒れたりしないのかと心配になるが、案の定、路上に荷物を撒き散らしてしまった現場を見たこともある。
タチレク、2014年。

2014年10月11日土曜日

タチレクのCD屋


タチレク国境近くには、コピーCDが溢れかえっている。音楽CD、カラオケVCD、映画DVDなど、どれも格安だ。根気良く探せば、思いがけない掘り出し物に出会ったりもする。ただし、ジャンル分けなどされてなく滅茶苦茶に陳列されているので、欲しい物を探しだすには、相当な根気がいる。
タチレク、2014年。

2014年10月10日金曜日

修行中の少年僧たち


2014年のカオパンサー(入安居)は7月12日だった。この少年僧たちも、3カ月後の満月の日まで、寺での修行に励む。
オークパンサー(出安居)は10月8日になる。
タチレク、2014年。

2014年10月9日木曜日

路上フルーツ屋


分量からしたら、スイカ一つ丸ごと買ったほうが安上がりだろう。ところがそうたくさん、スイカばかり食べられるものではない。 しかも旅行者は、ナイフなど持ち合わせていないこともある。
そんな事情から、路上で商売するフルーツ屋台は、とてもありがたい存在なのだ。ちょうど1人分くらいをカットしてくれて、ビニール袋に入れてくれる。しかも格安だ。
タチレク、2014年。

2014年10月8日水曜日

空き地はセパタクロー場


これまた、タイでも良く見掛ける光景だ。空き地では、セパタクロー遊びが行われている。さほど広い場所も必要としないし、蹴鞠一つで10人ほどが遊べる。
昔の日本で言えば、三角ベースボールのようなものだろうか。でもセパタクロー遊びは、大人も子供も一緒になって楽しんでいいる。
タチレク、2014年。

2014年10月7日火曜日

スヌーカークラブを見掛ける


タチレクの街では、このようなスヌーカークラブを良く見掛ける。おそらく、庶民の気楽な遊び場になっているのだろう。
そういえば、昔はタイの地方にも、こんなスヌーカークラブが多かったように記憶する。
タチレク、2014年。

2014年10月6日月曜日

市場建設中


タチレクのバーンコーン市場跡地で、昨年から建築工事が始まっている。これが新市場になるそうだが、おそらく近代的な市場に生まれ変わることだろう。
場所代が上がれば価格にもはね返ってくると思うのだが、地元の人の暮らしに直結する市場なだけに、物価がどうなるか少々心配になってくる。
タチレク、2014年。

2014年10月5日日曜日

市場は路上で仮住まい


タチレク国境近くの市場(現地の人はバーンコーン市場と呼ぶ)は、一昨年閉鎖されてしまった。売り場を失った商人は、旧市場近くの路上で商売をしている。
市場は、整備されて再開されると聞いているが、それまで困るのは商人だけではない。買い物のほとんどを市場で調達する、地元の人もさぞ大変なことだろう。
タチレク、2014年。

2014年10月4日土曜日

寺には茶色が多い


タイで寺院の敷地に入ると、黄色・黄金色が目立つことが多い。僧衣の色は黄色だし、寺の建物はたいてい金ピカだからだ。
ところが、ミャンマー国タチレクに入ると、これが少々変わってくる。まず僧衣は、タイよりはるかに渋い茶色。そして寺の建物も、茶色が多く使われているからだ。
タチレク、2014年。

2014年10月3日金曜日

タチレクの車は右側通行


ミャンマーはイギリス領だった名残で、人は左側、車は右側通行になる。
頭では分かっているのだが、なかなか身体が反応してくれない。日本でも、タイでも、その反対なのだから、仕方ないと言ってしまえばそれだけのことだ。
ミャンマー側に立ち入る度に、横断のときなど、いまだに冷やっとすることがある。
タチレク、2014年。

2014年10月2日木曜日

タチレクの果物屋


タチレクで売られている物は、そもそも北タイのそれとあまり変わりはない。果物も例外でなく、ミカン、マンゴスチン、ブドウ、リンゴ、竜眼などが店頭に並ぶ。
仕入先の段ボールを見ても、タイと中国から輸入されているのが分かる。
タチレク、2014年。

2014年10月1日水曜日

タイ・ビルマ橋を渡ると


タイ・ビルマ橋を渡り、ミャンマー側タチレクに入ると、先ずはこの三差路のロータリーにあたる。
と、書いてしまうのは簡単だが、実はここに来るまでには、厄介な障害をくぐり抜けなければならない。それは、橋のたもとに、数えきれないほどの現地人がたむろしていて、観光客と見ると盛んに声を掛けてくるのだ。「タクシーいりませんか」、「観光ですか? ガイドしますよ」、「日本語勉強しています。何処行きますか?」、「置き屋行きませんか?」等など。
見ず知らずの人間に、こんなに歓迎してもらえる場所は、他にはあまり思い当たらない。
タチレク、2014年。