2013年9月30日月曜日

自転車のおかげで


スクニランホテルを定宿にしたおかげで、従業員から自転車を貸してもらえるようになった。
チェンラーイの街は平坦な地形が多いので、こんな自転車でもあれば大いに役に立つ。一人であちこち回るうちに新しい発見もあり、ますますこの街にはまり込んでいくことになる。
そして、もう一つの定宿メーコックビラ滞在用に、自分用の自転車を買う羽目にもなってしまった。
チェンラーイ、1986年。

2013年9月29日日曜日

一般家庭の食卓


知り合いのサムローの家に出入りするようになったおかげで、庶民の暮らしを垣間見ることができた。
ある日の夕食のテーブルには、かりかりに焼いた豚肉、豆腐スープ、そしてバナナとランプータンが並ぶ。メコンは、日本人の友人のために、特別用意されたもの。
客が食べ終わるまで、家族は料理に手をつけないという習慣のようだった。
チェンラーイ、1986年。

2013年9月28日土曜日

カシオの時計を手渡す


チェンラーイで知り合ったサムロー夫婦には、たびたび自宅に招かれ、食事をご馳走になったりした。
奥さんに頼まれて、日本からカシオの時計を持って行ったこともある。300バーツで譲る約束だったが、チェンラーイを離れる前夜、
「これしか工面できなかった」
手にしているのは200バーツ。
もちろんそれだけ受け取って、カシオの時計は晴れて奥さんの腕に付けられることになった。
チェンラーイ、1986年。

2013年9月27日金曜日

定宿となったスクニランホテル


1983年、チェンマイから間違えて乗ったバスのお蔭で、ラムパーン経由というとんでもない遠回りをして着いたチェンラーイの街。
先ずはバスターミナルに一番近いウィアンインホテルに飛び込んだ。ところがこのホテル、当時は街一番の高級ホテル。フロントの女性は、場違いに紛れ込んできた日本人旅行者に、普段は従業員が使う階段下の小部屋を特別安く提供してくれた。
そして翌日、同じ経営というスクニランホテルに移動するよう勧められた。こちらは気取りのない、分相応の宿といって良さそうで、その後チェンラーイでの定宿となった。
チェンラーイ、1986年。

2013年9月26日木曜日

エラワンの祠


エラワンの祠は、お参りすると財運が良くなると言われ、昔から沢山の人で賑わう場所になっている。
ある日大丸デパートの帰り道に通りかかると、 花売りが花を押し付けお参りするように勧めてくる。疲れてぼんやりしていたため、何も考えずに花を受け取り、お参りを済ませた。しまった、と気付いた時にはもう遅く、100バーツの請求が。交渉の結果、50バーツほどで済んだが、苦い思い出となってしまった。
しかしここでの失敗に懲りて、その後は金銭の支払いには一層気を付けるようになり、おかげでトラブルに遭遇した記憶は殆どない。祠にお参りしたおかげで大きな失敗を回避できたとしたら、これはやはりご利益があったといえるだろう。
今でもこの前を通りかかると、当時のことを思い出し、手を合わせることにしている。
バンコク、1986年。

2013年9月25日水曜日

チェンラーイの旧船着き場


チェンラーイとタートンまでを結ぶ航路の船着き場は、オーバーブルック病院のすぐ北側にあった。
その後、河川工事のために、この辺りの水路は使えなくなってしまうことになる。
チェンラーイ、1986年。

2013年9月24日火曜日

最も美しいところ


チェンマイで知り合った地元の青年が、
「ラムプーンで最も美しいところ」
と案内してくれた場所がここ。
一見普通の民家に見えるが、中では信じられないような光景が待ち受けていた。
この建物は、タイ語で娘の家とよばれるところだ。
ラムプーン、1986年。

2013年9月23日月曜日

街の中心にあるお寺


小さなラムプーンの街の中心には、ワット・プラタート・ハリプンチャイというお寺があった。というよりも、お寺の周りに人が集まってできた街のようでもあった。
ワット・プラタート・ハリプンチャイは、ランナー国のメンラーイ王が建てたものであることは、後になって知った。
チェンマイまでの帰りのバスも、このお寺の前から乗車した。
ラムプーン、1986年。

2013年9月22日日曜日

連れて行ってもらったラムプーン


チェンマイの路上で、地元の青年と知り合いになった。彼の家はラムプーンにあるという。良かったらバイクの後ろに乗って行ってみないか、という誘いにのって出かけてみることにした。
「どんな街?」
「小さいけれど、綺麗なところだよ」
着いたラムプーンは、確かに緑の多い綺麗な街だった。南北に走る街道から200mほどがひらけただけの、小さな街だった。
ラムプーン、1986年。

2013年9月21日土曜日

国境の川の漁


タイ側メーサーイと、ビルマ側タチレクを隔てる国境の川で、漁をしている人たちがいた。
一応漁業権が存在するのか、中央よりタイ側で網を曳いていた。しばらく見ていたが、獲物はたまにしかかからないようだった。
メーサーイ、1985年。

2013年9月20日金曜日

チェンマイ-チェンラーイを結ぶプロペラ機


当時、バンコクからチェンラーイに飛ぶには、チェンマイで乗り継いで行かなければならなかった。
さすがにチェンマイまではジェット機が運航していたが、チェンマイ-チェンラーイ間は小さなプロペラ機。座席は3列で、30人も乗れただろうか。
山肌すれすれに飛ぶため、気流にもまれることもしばしば。30分ほどの飛行はスリル満点だった。
チェンラーイ、1985年。

2013年9月19日木曜日

ビルマへわたる橋


タイ側メーサーイからビルマ側へわたる橋を、地元の人はタイ・ビルマ橋とよんでいた。橋の北側にあるこのアーケードをくぐると、そこはもうビルマ領だった。
ビルマに初めて立ち入ったのは1983年2月のことだ。当時、まだ国境は開かれてなく、もちろん公式に入国した訳ではない。
外国人は、川にかかる橋の上までは行くことができた。橋では、ビルマ人の物売りが、古切手とか日本軍の軍票を見せてくる。ヒョウの皮が700バーツ(約7700円)で売られている。しばらく見ていると、600バーツにまけると言われた。
男も女もロンジーという腰巻をつけ、 女は頬にタナカという黄色い粉をつけている。ビルマ側の様子を窺っているうち、どうしても橋の向こう側、ビルマに入ってみたいという気持ちを抑えられな くなってきた。駄目でもともと、
「日本からの旅行者です。ちょっとこの辺りを見たいのですが」
「OKだ。カメラだけ置いていくように」
道路はまだ舗装されていなかったと記憶している。橋から100メートルほど歩くとT字路に突き当たった。そのまま右に行ってみると、喫茶店のような店でビルマ人がお茶を飲んでいる。雑貨屋のような店もある。売っているものは、タイとほとんど同じようだ。 あまり深入りするのも気が引けたので、すぐに引き上げることにした。
当時の記録を見ても、ビルマへ入った、としか書かれていない。車が右側通行だったことも、ほとんど車が走っていないこともあり、タイへ戻ってから気が付いたほどだった。
消化不良のような結果だったので、次にメーサーイを訪れたとき再チャレンジ。今度はもっと奥まで入り込んでやろうと気負って行ったのだが、橋のたもとであっさり立ち入り拒否されてしまった。
メーサーイ、1985年。

2013年9月18日水曜日

市場の魚売り


市場の魚売りは、生きた魚をその場でさばいていく。いかにも新鮮だし、手の空いているときに作業をすることで、時間的にも効率が良い。
日本でも昔、自転車で来る魚屋さんが、客の前で魚をさばいて売っていたことを想い出した。
チェンラーイ、1985年。

2013年9月16日月曜日

チェンラーイの道端で


チェンラーイの街では、いろいろな人と、いとも簡単に交流することができた。
例えば散歩中に、道端に茣蓙を敷いて食事中のグループに出会うとする。目が合うと、
「飯は済んだか?」
「一緒に食べないか?」
といった展開になる。
何処かの家の前で結婚式が行われていた。前を通りかかっただけなのに、中に招き入れられ、パーティーに参加する羽目になったこともある。
チェンラーイ、1985年。

2013年9月15日日曜日

北タイスープ麺ナムギアオ


北タイ名物ナムギアオを知ったのは、チェンラーイ中央市場内の「パーヌアン」という店でのことだ。このスープ麺を初めて食べたときは、ショックを受けた。血で出汁を取ったというスープは独特のこくがあり、そのくせ血の臭みは全く感じられない。臭い消しにギウという花を使っているからだ。
乾季のチェンラーイの朝は冷え込む。そんな寒い朝にナムギアオを食べると、身体が温まって、一日のエネルギーが湧き出てくる気さえしたほどだ。
チェンラーイ、1985年。

2013年9月14日土曜日

メーサーイの街


メーサーイは、街道沿いだけが賑やかな、小さな街だった。
それでも、ここではいろいろな発見があった。ミカン、イチゴ、リンゴ、ウメなど、日本でも馴染みの果物が直売されている。漢字で書かれたお菓子の箱や、海苔、キノコ類なども店頭に積み上げられている。
人の服装も様々だった。山岳民族の衣装や、ビルマ風の服を着た人も、ごく当たり前に見ることができる。
食堂で隣りのテーブルにいた中年の夫婦者に、家に遊びに来ないかと誘われた。直ぐ近くというのでついて行くと、国境を川沿いに東に進んで行く。行った先には、たくさんの若い女性がたむろしていた。この夫婦は、置屋の経営者だったのだ。
チェンラーイ、1985年。

2013年9月13日金曜日

国境の橋の下で


メーサーイからタチレクへ渡る橋の下では、子どもたちが水遊びに興じていた。川の中央が国境とするなら、彼らは自由に両国を行き来しているようにも見える。
日本に住んでいると、国の境というものは厳然とした印象があるが、随分緩いものだと思った。
もともと、子どもたちにとっては、国境などあまり関係ないのかもしれない。
メーサーイ、1985年。

2013年9月12日木曜日

ステーションホテルから駅前広場を望む


当時の駅近くでのもう一つの定宿は、ステーションホテルという旅社だ。駅をはさむように、スリクルンホテルとは、ほぼ対称の位置関係にある。
西側からは、ちょうど駅前広場を見渡すことができる。 ここには夜になると、天秤棒を担いだソムタム売りが集まってきた。
バンコク、1985年。

2013年9月11日水曜日

かまぼこ型の駅舎


3回目の訪タイでは、ここバンコク中央駅からチェンマイへ旅立った。そして4回目の訪タイでは、ノーンカーイへの列車に乗ることになった。
タイへ通い始めた当初は、列車でいったん遠くまで行き、帰途のバンコクまでは、バスであちこち寄り道しながら戻るというパターンが多かった。
タイ国内の旅は、このかまぼこ型の駅舎から始まるのだった。
バンコク、1984年。

2013年9月10日火曜日

スリクルンホテルより中華街を望む


バンコクでの宿は、鉄道での移動の便が良い中央駅周辺にとることが多かった。
定宿の一つ、スリクルンホテルは、西側の部屋の方が外からの騒音が入りにくい。窓からは西に広がる中華街を望むことができる。まだ高層建築はほとんどない。
バンコク、1984年。

2013年9月9日月曜日

チェンラーイの市場にて


チェンラーイには大小たくさんの市場があるが、最初に馴染みになったのは、市内中央にあるチェンラーイ生鮮第一公設市場だ。市場へは四方八方から入ることができたが、大抵は宿から近いこの南西の入り口を利用した。
市場の中では、実に様々な物が売られていた。ありがたいことに食堂街もあり、どこも格安で美味しかった。市場に通うことによって、食のバリエーションは一気に増えることになった。
チェンラーイ、1984年。

2013年9月8日日曜日

自宅に招待される


親しくなったサムローが自宅に招待してくれた。家族は、奥さんと男の子が一人。
室内はシンプルで、テレビとラジカセ、不釣り合いに大きな冷蔵庫が置かれていた。板壁には、プミポン国王の写真が何枚か貼られていた。
「カシオの時計は、日本でいくらするか?」
「300バーツ位かな」
奥さん用に、カシオの腕時計を買ってくることを約束した。
チェンラーイ、1984年。

2013年9月7日土曜日

気の良いサムロー


2度目のチェンラーイでは、地元の人との繋がりが深まった。友人とは言えないまでも、知り合いが何人かできたのだ。前回訪れたとき、街中を10バーツ(当時約110円)で一回りしてくれたサムローもその一人だ。
彼は後に、「まさか(チェンラーイに)また現れるとは思ってもみなかった」と話してくれた。
チェンラーイ、1984年。

2013年9月6日金曜日

タイ・エアウェイズのオフィスにて


チェンラーイからバンコクへは、前回バスを使ったので、このときは飛行機にしてみた。
予約に訪れたタイ・エアウェイズ(現タイ航空)のオフィスには、市内地図や簡単なガイドパンフレットが置かれていた。スタッフも皆とても親切で、この後昼食に誘ってくれたりした。
その席であれこれと街情報を教えてくれ、チェンラーイがいっそう魅力的な街に思われるようになった。
チェンラーイ、1984年。

2013年9月5日木曜日

街のほぼ中心にある時計塔


二度目に訪れたチェンラーイでは、主に街中を探索することにした。
街は静かで、ゆっくりと時が過ぎていく感じがした。車はあまり通らず、そのスピードもとても遅い。市民の交通手段は、サムローが主流のようだった。
散策するにも、街のほぼ中心にある時計塔を出発点にすれば、大体の方向や距離をつかむことができた。
チェンラーイ、1984年。

2013年9月4日水曜日

大衆食堂のウエイトレス


チェンラーイの宿の前には、大衆食堂が何軒か並んでいた。
ウエイトレスは、一応揃いのエプロンなどつけているが、どうもあか抜けない娘が多い。どの娘も人懐こく、マニュアル接客とは正反対の対応が、一人旅の身には嬉しく感じられた。
チェンラーイ、1984年。

2013年9月3日火曜日

チェンラーイ市場に隣接する寺


チェンラーイの寺院というと、ワット・プラシンやワット・プラケーオが有名だが、個人的にはこのワット・ムンムアンが馴染み深い。それは、中央市場に出入りすることが多く、そのすぐ隣りに位置しているからだ。
多くのタイの街の成り立ちは、先ず市場ができて、その周りに人が住むようになっていったことを考えると、市場のすぐ隣にあるこのワット・ムンムアンにも、それなりの歴史や意味があるのだろうと想像する。
チェンラーイ、1984年。

2013年9月2日月曜日

遺跡の街チェンセーン


チェンセーンは、遺跡がとても多い街だった。少し歩けば、すぐに遺跡が見えてくる。それがまた、柵も何もないような、ちょっとした空き地のような場所にあるのだ。
当たり前過ぎて、管理する必要などないのかもしれないと思ったものだ。
チェンセーン、1984年。

2013年9月1日日曜日

チェンセーン港へ続く道


チェンセーンでは、中国からメコンを下ってきた様々な商品が売られていた。特に、港に続く川沿いの道には露店がたくさん出ている。何れも、港から直接運び込んで商売しているようだった。
衣料品、乾物など、リンゴは箱で売られていた。日本のリンゴに慣れた目からすると、食べたいという気は全くおこらなかった。
チェンセーン、1984年。