2014年12月17日水曜日

幼稚園児の送迎


2004年の一時期、知人(タイ人)家族に頼まれて、その家の娘さんの幼稚園送迎を頼まれた。
初日に学校に迎えに行くと、厳めしい顔をした女性教師が、児童の送り出しを担当していた。彼女は、初めて見る日本人らしき男に警戒したのか、ちょっと強張った言い方で、「身分証明書を見せて、ここにサインをして・・・」と事務的な手続きを要求した。
帰ってから知人家族にその様子を話すと、「人さらいが多いから」。
顔を覚えてくれてからは教師の表情も和らぎ、むしろ親しげに話しかけられるようになって、世間話の相手までさせられたりした。
写真は朝の会に向かう児童たち。上級生の指導で整列させられる。
チェンラーイ、2004年。

2014年12月16日火曜日

ドイインタノンのリス族村の朝


朝は霧がでて、視界はほとんど利かない。
「こんなところまで来てくれてありがとう」
「こんな素晴らしいところに連れてきてくれて、本当にありがとう」
本心だった。
電気もガスも水道もない。畑で作物を作り、豚を殺し、飼っている鶏やその卵を食べる。
自然のなかで生きる、人間の本来の姿を垣間見ることができたことに感謝したのだ。
この日の朝、タイ最高峰ドイインタノンの最高地に位置するリス族村を後にした。
メーチェム、2004年。

2014年12月15日月曜日

蝋燭の下で遊ぶ


夜は、焚き火を囲むように人が集まっていた。空の星は、とても近くに感じられた。井戸端会議ならぬ火の端会議は、焚き火が燃え尽きると散会になった。
寒い山で水浴びは辛いだろうと、知人家族は焚き火で大鍋に湯を沸かしてくれた。その温かさは、身体にも心にも沁みた。
電気のない村の子供たちには、テレビもゲームもない。それでも、蝋燭の火の下、追いかけっこやかくれんぼをして、楽しそうに遊んでいた。
メーチェム、2004年。

2014年12月14日日曜日

リス族衣装を着た少女


ドイインタノンのリス族村では、大人たちは街で普通に見掛ける洋服を身に着けていたが、子供たちは民族衣装を着ている子が多かった。
リス族の民族衣装は、色づかいがとても綺麗に見える。
電気のないこの村には、もちろんテレビもなく、「日本人だ」などと言っても、キョトンとされるだけだった。
メーチェム、2004年。

2014年12月13日土曜日

村には鶏と豚ばかり


ドイインタノン山中のリス族村では、豚と鶏ばかりが飼われていた。食を支えてくれる動物しかいないようだった。
村を訪れた晩、豚を一匹潰して解体してくれた。そのときはものすごい悲鳴が響き渡り、仲間が殺された豚たちは、いったん山に逃げ込んで姿を消してしまった。
ところが翌日には、何もなかったかのように、村に戻って来ていた。
メーチェム、2004年。

2014年12月12日金曜日

最高地にあるリス族村


この辺り、他にも山岳民族の村はたくさんあるのだが、このリス族の村が一番高所に位置するという。最後に移住してきたため、一番奥まった所にしか村を拓くことができなかったそうだ。
もちろん電気は通じていないのだが、このことを聞いていたおかげで助かったことがある。
実は、この村に着く直前、前後して走っていたソンテオとはぐれてしまったのだ。道は二手に分かれている。どちらの道も、村への入り口になっている。さてどちらの村か? 
左の道には電線があるが、右手には電線がない。電線がない方、右手に行ったら見事正解、目指す村に無事着くことができた。
メーチェム、2004年。

2014年12月11日木曜日

ドイインタノンのリス族の村へ


チェンマイに住む知人が里帰りするからと言うので、誘われるままに同行したのは、タイ最高峰の山ドイインタノンの山中にあるリス族の村だった。
「場所はメーチェム。大した距離ではないよ」
「じゃあ、昼頃に出ようか」
「いやそれはちょっと・・・なるべく朝早く出た方が良い」
大した距離でないと言うのに、どういうことだろうかと思いながらも、朝10時にドリーム125でチェンマイの街を出発した。
知人の家族も同行したので、彼らが乗ったソンテオと前後するようにバイクを走らせた。チェンマイ郊外の街メーリムを西に入ってからが大変だった。途中いろいろな村に立ち寄りながら行くため、山また山の連続、道はもちろん未舗装だ。
メーチェムといっても、標高2590mのドイインタノンを,、かなり上がった所に目指す村はあった。途中ガス欠もあり、到着したのは陽が落ちてから。約9時間の道程となり、十分に大した距離だった。
知人は、本当のことを話して同行を躊躇されることを危惧したのだ、と明かしてくれた。
写真は知人の家。親が村長ということで、 村の中でも際立って立派な建物になっている。
メーチェム、2004年。

2014年12月9日火曜日

ドンサオ村にて


2004年1月に、チェンセーンから船で上陸したドンサオ村は、一応ラオス国に属する。
手許には縮小した画像しか残っていないので、国旗と村の表示、観光客と一緒に写真に収まるラオスの子供たちの、2枚の画像を連結してみた。
ドンサオ村、2004年。

2014年12月8日月曜日

ラオス国ドンサオ村へ


2004年1月、チェンセーンから対岸の、ラオス国ドンサオ村に上陸。
タイ側からは、20バーツ払えばビザなしで上陸でき、一応ラオスに一時入国することができた。もちろんこの村からは出られないが、ラオスの酒や織物、いろいろな土産物もあり、雰囲気だけは味わうことができる。
村の名前に使われている“サオ”は北タイ語で“20”を意味し、居合わせたタイ人は「なるほど、20バーツ払うから“ドンサオ”か」と言っていた。本当の名前の由来は知らない。
ゴールデントライアングル、2004年。

2014年12月7日日曜日

カジノホテルができていた


2004年1月、チェンセーンから、ゴールデントライアングルまでのボートツアーに乗ってみた。
立派な建物が目についたが、これはミャンマー側のカジノホテルで、ここで遊ぶには、タイ出国ミャンマー入国手続きが必要になるとのことだった。
ここに遊びに行った知人がいたが、彼は滞在予定を短縮して、すぐに日本へ帰国してしまった。
ゴールデントライアングル、2004年。

2014年12月6日土曜日

チェンラーイ山岳民族村の首長族


建設中のチェンラーイ山岳民族村には、首長族も一家族暮らしていた。
聞いてみると、タイではなく隣国ミャンマーから移住してきたという。
「重くないですか?」と訊くと、「やはり重いです」。
首が長いほど美人とされるが、美人になるのもなかなか大変なものだ。
チェンラーイ、2004年。

2014年12月5日金曜日

アカ族のブランコ


チェンラーイ山岳民族村には、アカ族のブランコも用意されていた。
アカ族のブランコ祭りも、最近では良く知られるようになった。この儀式の意味には二説あるようだ。一つは、身体を揺することによって悪霊を追い払うという説。もう一つは、風に揺れる稲穂を真似て豊作を祈るというものだ。
チェンラーイ、2004年。

2014年12月4日木曜日

チェンラーイ山岳民族村のアカ族


チェンラーイの空港近くに、山岳民族村が建設中ということで出掛けてみた。
完成すると、アカ族、ラフ族、ヤオ族、首長カレン族などが点在して暮らす、山岳民族公園風の施設になるという。2004年1月時には、まだ開園前と言うことで、無料で見物することができた。
園内には、山からひと足先に移住してきた人たちが、生活を始めていた。彼らは、ここでは住居を提供されるだけで、現金収入は観光客からのチップになるのだろうと話してくれた。
写真はアカ族の人たち。悪霊から守るために被る帽子が特徴的だ。
チェンラーイ、2004年。

2014年12月3日水曜日

ゾウも現金が好き


メーサー・エレファント・キャンプでは、サトウキビやバナナが、ゾウの餌として売られている。ゾウたちは、鼻を伸ばして器用にそれを受け取る。
サトウキビもバナナも、同じように喜ばれているようだが、20バーツ札など出したりすると、そちらを優先して取ろうとする。
食べ物よりも、現金のほうが好きなようだ。
メーリム、2003年。

2014年12月2日火曜日

メーサー・エレファント・キャンプへ


2003年には、日本からのお客さんを案内して、メーサー・エレファント・キャンプへ遊びに行った。
ここは、チェンマイ市街から車で30分ほどの、ちょうど手ごろな場所に位置している。
ゾウ使いで思い出すのは、2005年に公開された「星になった少年」という映画だ。映画では、ゾウ使いを目指す日本の少年が、タイのゾウ訓練センターで修行する場面も出てくる。「星になった少年」は、DVDで、タイ人の知人と一緒に観たが、訓練センターの仲間からの仕打ちには、一様に首を傾げていた。
メーリム、2003年。

2014年11月28日金曜日

カセットテープ屋台の想い出


もう20年以上も前のことだ。
パッポン通りの北側、スリウォン通りに、カセットテープを並べた屋台が出ていた。品揃えが豊富なことと、まとめ買いだと値引いてくれるので、よくその店で買い物をした。
ある日、そのカセットテープ屋で、さて何を買おうか物色していると、たどたどしい日本語で声を掛けられた。
「すみません、“雨”という歌が欲しいです。日本の歌です」
同僚の間でこの歌がとても評判が良く、是非カセットテープで練習したいのだと言う。日本の歌は日本語で表記されている。それを読めないタイ人なら、目指す曲を見つけるのはとうてい無理な話だ。
若い女性の頼みとあって、カセットテープの山から一生懸命探しだしたのが、森高千里の“雨”だった。
そのことがきっかけで、誘われるまま近くのカラオケバーに入った。彼女は日本人向けカラオケバーに勤めるホステスだったのだ。
店のカラオケで聴いた彼女の歌う“雨”は、お世辞にも上手いとは言えなかった。
その後、店を再訪する機会はなかったので、カセットテープでの練習の成果が如何なものになったのか、知る由もない。

2014年11月27日木曜日

雨上がりの夕景


2002年から2009年の間の写真は、ほとんど残っていない。
ちょうど2002年頃が、フィルムカメラからデジタルカメラに乗り換えた時期にあたる。最初に買ったコンデジのあまりにもひどい写りに、写真を撮る意欲が一時的に失われていたことによるものだ。そのため、この8年間の写真は、たまに持ち出す古いフィルムカメラで撮ったものだけが残っている。
2002年以前、タイに持って行くフィルムカメラは、コニカビッグミニかニコンメタルズームで、当時メインとして使っていたオリンパスOM-2など、荷物になるので一度も持参したことはない。
もっと昔は、更に小型のコニカレコーダーや110フィルムのもの、ポケットカメラなども持って行ったことがある。コニカレコーダーはハーフサイズで、フィルム代の節約にもなった。
この写真は、まだフィルムカメラで撮ったもの。2002年のタイでの写真は、この1枚しか残っていない。
チェンラーイ、2002年。

2014年11月26日水曜日

パタヤーの注文食堂


パタヤーの表通りでは、外国人が多いせいか、いろいろな国の料理を食べることができた。その代わり値段は少々高め。いつもそんなものばかり食べていられないので、大衆食堂での食事がメインになってくる。
嬉しいことに一本裏通りに入れば、 このように小さな食堂がたくさんある。地元の人が利用するこのような店なら、安く美味しく食べることができる。この写真は、お馴染みの“注文に従う料理”の店。普通盛り20B(バーツ)、大盛り25B。
因みにこのとき食べたのは、豚肉バジル炒めのせご飯目玉焼き添え。
パタヤー、2001年。

2014年11月25日火曜日

2001年のパタヤービーチ


初めて行った1981年頃のパタヤーは、まだ海もきれいだった。寝転がって日光浴をする欧米人と、水遊びを楽しむタイ人。タイ人がTシャツを着たまま海に入っていくのには少し驚いた。たまにトップレスの白人女性などもいて、これにはもっと驚かされた。 通り過ぎた後にさりげなく振り返って見る、というのがトップレスの鑑賞テクニックのようだった。
経済発展とともに海は汚れていったが、浜辺の整備や下水道工事がされ、この2001年頃には、またきれいな海がよみがえってきていた。
パタヤー、2001年。

2014年11月24日月曜日

クンコーン滝


タイの滝は、一般的に落差の小さなものが多いのだが、このクンコーン滝はなかなか豪快で見応えがあった。乾季でこの水量なら、雨季はさぞ立派な景観になるのだろう。
場所は、チェンラーイ市街西側のチェンマイ門からずっと西へ行った所にある。
また、このときは夕方だったためか、他に見物する人は見当たらなかった。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月23日日曜日

メーファールアン公園整備中


シーナカリン王太后の宮殿南側には、大規模な庭園の整備が進められていた。
花など鑑賞する機会の少ないタイ国民に、 広く世界の花を楽しんで欲しいとの願いが込められているのだ、という説明を聞いた。
メーファールアン庭園は、この後に公開されたが、その後も整備改修が繰り返され、現在はこの写真からは全く想像できないような姿になっている。
メーファールアン、2001年。

2014年11月22日土曜日

ドイトゥンパレス整備中


タイ北部を愛したシーナカリン王太后は、晩年ドイトゥンに宮殿を建て、そこで過ごすことを楽しみにいしていたという。
生誕100年を記念して、宮殿とその周辺の整備が進められていた。
メーファールアン、2001年。

2014年11月21日金曜日

王太后生誕100年


現プミポン国王の母親は、シーナカリンタラー=ボーロマラーチャチョンナニー王太后という名前らしい。1900年生まれなので、この前年2000年から、チェンラーイの街中では、生誕100年を祝うこのような立派な表示板があちこちに設置されていた。
王太后はタイ北部を愛し、頻繁に訪れていたことから、特にチェンラーイでは人気が高い。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月20日木曜日

花・果物市場


チェンラーイバスターミナル近くにあるスリコーン市場は、日本人旅行者の間では花市場とか果物市場とか呼ばれた。道路沿いに花屋や果物屋が並んでいるからだろう。その他の売り場、日用品や食品などは、市場の中に入って行かないと見られない。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月19日水曜日

ハウマッチおじさん現る


メーコックビラに日本人が僕しか滞在していなかったときに、そのおじさんはチェックインしてきた。
チェンラーイは初めてということで、いろいろ街の様子を訊かれたので、ひと通り説明すると、ちょっと遠慮勝ちに、
「あのぅ、夜の遊びはどんなもんでしょうか? つまり・・・女の子なんですけど」
更に話を聞くと、どうやらチェンラーイでは若い女の子と遊び放題だ、との情報をどこかで仕込まれてきたらしいことが窺えた。
時計塔近くに小さなバー街(チェンラーイパッポンとか呼ばれていた)があることを教えると、
「今夜行きましょう。ビールの1杯くらい奢りますから」
と誘われる羽目になった。
因みに、こういう店での遊び方は、店内でビールを頼み、好みの女の子にドリンクを奢り、デートを誘いかける、というシステムらしい。
このおじさん、そうとう気合が入っているようで、だいぶ早い時間の出撃とあいなった。そんなに焦っても…。案の定時間が早過ぎて、女の子はまだ外でお喋りに興じている。もちろん店内には、まだ客もいない。
気合十分のおじさんは、外に座っている一人の女の子の前に立ちはだかると、いきなり、
「How much?」
女の子は怪訝そうに、ドリンク代の説明をする。するとおじさんは、
「No. You, How much?」
いきなりストレートな誘いに、女の子もたじたじの様子。おじさん、そんな反応にも臆せず、たたみかけるように、
「You, How much?」
ああ、この後のことは、あまり思い出したくない。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月18日火曜日

北タイ乾季のフルーツ屋


1月下旬、スリコーン市場で果物屋を覗いてみた。マンゴスチンやチョンブー、ミカン、ブドウ、リンゴなどが並んでいる。
最近は輸送網の拡充で地域差はほとんど見られなくなったが、この当時はまだ、ミカン、ブドウ、リンゴなどは、北タイだからこそ安く買える貴重品だった。
チェンラーイ、2001年。

2014年11月17日月曜日

ドイメーサロンの路上市場


中国正月元旦の日も、ドイメーサロンの路上市場は、いつもと変わらず営業されていた。とはいえ、客の方も少なく、いつもと変わらず閑散としている。
メーチャンからの乗り合い車は、この辺りに到着していた。
メーファールアン、2001年。

2014年11月16日日曜日

元旦を祝う村


ドイメーサロンの村でも、元旦を祝う踊りが賑やかに行われていた。
近隣の山岳民族も参加していて、ラフ族、アカ族、リス族の民族衣装が混在していた。
メーファールアン、2001年。

2014年11月15日土曜日

ドイメーサロンの移動式遊園地


中国正月に合わせて、ドイメーサロンにも移動式遊園地が設営されていた。場所は路上市場前の学校だ。
遊んでいる子供の数は多くないが、これでも賑わっているのだろう。
メーファールアン、2001年。

2014年11月14日金曜日

ドイメーサロンの中国正月


国民党残党の村として知られるドイメーサロンだが、ちょうど中国正月のときに居合わせたのは2001年のことだった。
チェンラーイ街中に比べると、割りと静かな元旦だった。赤いシャツを着た一団が、店や住宅を周って行く。一軒一軒入り口の前で、おそらく正月を祝う歌をコーラスし、ご祝儀を受け取る。そんな光景だけが印象に残っている。
メーファールアン、2001年。

2014年11月9日日曜日

Big-Cエスカレーターの前で


チェンラーイのBig-Cといえば、忘れられない思い出がある。開店直後、エスカレータの前での、ちょっとした出来事だ。
チェンラーイの郊外に、このBig-Cが大々的にオープンすることになったのは、1990年代も後半のことだった。Big-C開店は、地元では大ニュースになった。何しろ当時のチェンラーイでは、買い物といえば市場ですませるのが常識。それまでも、デパートらしきものが無かったわけではない。しかし街の中心にある2軒ほどのそれはとても小さく、Big-Cなどという大規模店は市民にとっては別世界の存在だったからだ。
開店の日、早速出かけてみると、さすが地方都市。バンコクなどの都会のBigCと比べると、明らかに客層が垢抜けていない。市場に野菜を買いに行くような気分で来ている人ばかり。しかも広い店内はまだガラーンとしている。
二階に上がるために、エスカレーターの方へ行くと人だかりができている。エスカレーターは動いているのに、誰も乗っていない。いったいどうしたのかと思いながら最前列へ。
エスカレーターのステップの前には、いかにもさっきまで農作業をしていましたという風情の、中・熟年女性が数人、照れ笑いを浮かべながら佇んでいる。お互いに顔を見合せながら先を譲り合っている様子。納得した。エスカレーターを前にして、第一歩を踏み出す勇気がないのだ。後続の人達も、どうやら腰が引けているようで、誰も前にしゃしゃり出ようとはしない。
「足を乗せれば良さそうだけど、動いているし怖いな。失敗して転んだらみっともないし・・・」
この街で初めて見るエスカレーターを前にして、内心こんな風に考えていたのだろう。
結局エスカレーターベテランの日本人が先頭に出て、見本を示す羽目になってしまった。すると、その後に続いて、皆さんそれに倣い、まるで小さい子供がするように、ぴょんと跳び乗っていた。
上手く乗ることができて、ちょっと誇らしげな表情を見ていると、こちらまで嬉しい気分になってしまったものだ。

2014年11月8日土曜日

Big-Cで買ったサバステーキ


チェンラーイにBig-Cがオープンしたのは、1990年代後半のことだった。定宿のメーコックビラからは離れていたが、自転車を持っていたので、サイクリングがてら良く遊びに行った。
帰りがけに夕飯の惣菜を買ってくることもしばしば。この日は、生野菜とサバステーキを買い込んだ。
サバステーキはタイでは良く見掛ける料理で、発祥はパッポン通りにある「ミズキッチン」という洋食屋らしい。
Big-Cのサバステーキは、脂っ気がなくぱさぱさした感じだったが、まあ海の魚が食べられれば良しとしよう。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月7日金曜日

魚といえばティラピア


チェンラーイ辺りで、魚料理といえば、ナマズかティラピアだ。特にこのティラピアは、いかにも焼き魚という雰囲気があって、日本人の口にも良く合う。
ティラピアは、今でこそ一般的な食材になっているが、元を辿ると日本から贈られた50匹が繁殖したものらしい。そのきっかけは、現在の天皇陛下が皇太子時代、タイの食糧事情の向上にと、50匹のティラピアを寄贈したことによる。
日本から来た魚の子孫を、日本から来た旅行者が食べているわけだ。どうりで親しみを覚えるはずだ。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月6日木曜日

夕食は簡単に


この日の夕食は、幅広米粉麺炒め(パット・シウユ)と北タイ風ソーセージだ。ソーセージにはキャベツの千切りと生姜が添えられている。右のビニール袋には豆乳が入っている。
普段より軽めのメニューになっているのは、昼にたくさん食べたためだろう。 どこかのホテルで、バイキングでも食べたのではなかろうか。当時のホテルバイキングは、高くても100バーツ(当時約300円)だった。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月5日水曜日

夕飯は貝入りお好み焼き


ゲストハウスでのこの日の食事写真、メインは右端の、ホイ・トートと呼ばれる貝入りお好み焼きだ。
チェンラーイは海からはるかに離れた内陸なので、海産物は鮮度が心配だったが、たまに無性に食べたくなってしまうのがこのホイ・トートだ。タイ人はこれを単品で食べているが、僕には勿体ない感じがして、おかずとしていただくことが多い。
他のおかずもご飯にのっているので、この日はずいぶん贅沢な食事だ。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月4日火曜日

夕食は豚足飯


ゲストハウスで撮りためた食事写真の1枚。
この日の夕食のおかずは、豚足と茹で山菜。当時、 このメニュー(おかずとご飯)で30バーツほどだろうか。
食堂でぶっかけご飯を注文しても、20バーツ位だったので、出費は大して変わらない。しかし、総菜屋で買った方が量が多いし、ビールを飲みながらゆっくり部屋で食べるのは、また特別に美味しく感じられる。写真では分からないが、カセットのBGMが流れている。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月3日月曜日

ゲストハウスでの朝食


2000年8~9月にチェンラーイに滞在したときは、定宿のメーコックビラに知り合いが一人も居合わせなかった。それどころか客自体少なく、宿泊者一人だけという夜も続いたりした。
時間はたっぷりあるためか、日常の食べ物を撮り残しておこうと思ったようで、そんな写真がたくさん残っている。
この日の朝食はお粥(ご飯にお湯をかけただけだが)。日本から持ってきたふりかけと、現地で売られている梅の酢漬け、そして半熟卵が入っている。
一杯の牛乳は、日本でもタイでも、ほとんど欠かせない習慣だ。
チェンラーイ、2000年。

2014年11月2日日曜日

露店のある頃のタイ・ビルマ橋


タイ・ビルマ橋を初めて渡った1983年には、橋の上は物売りでいっぱいだった。食べ物や織物も売られていたが、もっと怪しげなものを持った売り子も良く見られた。ルビーらしき原石、生きたトカゲ、日本軍の軍票、ヒョウの毛皮まで売られていた。
1997年国際国境として開放されてからは、しだいに物売りの姿は消えていった。この2000年の写真にも、果物売りの姿が見られるだけだ。
メーサーイ、2000年。

2014年11月1日土曜日

ラオス側から見たメコン


タイに居ると、メコンは常に陽の上る方向にある。ところが、対岸ラオス側からだと、メコンの方角から西日が射してくる。当たり前のことだが、こんなことが非日常として感じられた。
北タイからルアンプラバンへ入る場合には、チェンコンからフエサイにわたり、そこからボートで下って行くのが一般的だが、乾期は、川の水量が極端に減少している。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月31日金曜日

少女店主


山岳民族の市場では、服や織物、小物入れなどが売られていた。この少女も手作りの織物を売っている、立派な店主だ。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月30日木曜日

ラオスの笑顔


北タイの生活に染まっているせいか、ラオスでは笑顔が少ないと感じた。それでも10代の女の子は別で、片言のラオス語で話し掛けるとこの通り、屈託のない笑顔を見せてくれた。この世代の女子が、ちょっとしたことで笑ってくれるのは、世界共通かもしれない。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月29日水曜日

山積みのフランスパン


ラオスは、第2次世界大戦をはさんで、2度にわたってフランスの植民地になっている。フランスの影響は大きかったようで、ライスワイン(日本酒のようだった)とフランスパンは、特に美味しく感じられた。
朝の市場でも、山積みにされたパンが売られていた。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月28日火曜日

空路でルアンプラバンへ


ルアンプラバンへは2000年、チェンライから空路で訪れた。空港で30ドル払うと、その場でビザが発給された。
飛行機は、格安航空会社として参入したばかりのエンジェル航空。チケット代は5380バーツ(当時約17700円)。チェンラーイ空港を無事飛び立ち水平飛行にはいると、機長による乗客への挨拶回り が始まった。乗務員室から出てきた機長の姿を見たとたん、背筋を冷たいものが走る気がした。とうに70を過ぎていそうな、いやもしかすると80に手が届くのではないかという老機長だったからだ。通路を歩く足取りも心なしかおぼつかないようで、後ろを歩くアテンダントが病人の付添人のように見えたほど。
ところが、老機長イコール大ベテランだったようで、無事ルアンプラバンの空港に到着。
ニュー・ルアンプラバンホテル45ドルに投宿、早速街歩きに出た。
舗装道が少ないせいか、乾季のルアンプラバンは埃っぽい。幸いなことに車は少なく、人の歩みもゆっくりで、時間もゆっくり流れていくような気がした。この落ち着ける街は、それ自体ユネスコの世界遺産に登録されているのだ。
ルアンプラバン、2000年。

2014年10月27日月曜日

馬が放牧されていた


ドイメーサロンをバイクで走っていると、放牧されている馬に遭遇した。持ち主の姿はどこにも見えなかったが、特に人を警戒するでもなく、マイペースで草を食んでいた。
牛の姿はよく見掛けるが、馬を見掛けるのは珍しい。
チェンラーイ、2000年。

2014年10月26日日曜日

ドイメーサロンの焼き畑


近年は禁止されているようだが、昔は焼き畑が盛んに行われていた。今は茶畑になっているドイメーサロンの山肌も、この当時は焼かれて赤茶けた色になっている。
北タイの乾季は、焼き畑のおかげで、スモッグのような霞がかかることが多かった。
メーファールアン、2000年。

2014年10月25日土曜日

カメラが一般的になってきた


著しい経済成長を遂げたタイでは、カメラもごく一般的な持ち物になってきた。ちょうどこの2000年頃は、チェンラーイ辺りでも、このように自前のカメラで記念撮影をする姿をよく見掛けた。
因みに、タイの王室もカメラ好きなようで、国王はキャノンEOSを、王妃はやはりキャノンPowerShotを愛用しているらしい。当然国民の持つカメラも、キャノンが圧倒的に多い。
チェンラーイ、2000年。

2014年10月24日金曜日

捨てられていったバナナ


メーコックビラの庭の一角には果樹が植えられていて、収穫物は常連客に振舞われた。旅人は熟していく果実を見やりながら、あと何日で食べられるか、もう少しチェックアウ トを延ばそうか、などと言い合ったものだ。あるときは経営者の奥さんが、あるときは使用人のおばさんが、何も言わずに部屋の前のテーブルに置いていってくれる。
ある日、チェックインしたばかりの日本人の女性グループが、僕のテーブルのバナナを見ている。「ここで採れたものです、よかったらどうぞ」と言うと、一房すべて持って行ってしまった。日本では、採れたてのバナナを食べる機会など、めったにないのだろう。
翌日の昼、部屋掃除を終えた使用人のおばさんが、僕に昨日のバナナを見せる。チェックアウトした部屋のゴミ箱に捨てられていたそうで、少しゴミも付いているようだ。おばさんは「勿体無い」と言う。一房10本以上あるのに、食べたあとは2本だけ。おばさんの寂しそうな目を見ながら、僕は黙ってバナナを受け取った。
食べきれる分だけ持っていけばいいのに、と最初は腹が立ったが、いやいや、もしかすると予定を変更して、早めにチェックアウトしたのかもしれない、と思い直すことにした。それならば、部屋に残されていても仕方ないだろう。旅人にとっての予定は、未定でしかないのが常。
捨てられたバナナは、翌日までに完食した。 使用人のおばさんは、いつもと変わらず、今度はパパイヤを届けてくれた。
チェンラーイ、2000年。

2014年10月23日木曜日

我が長期滞在の部屋


1987年に出版された“地球の歩き方・タイ”に紹介されたおかげで、日本人に人気の宿として大ブレイクしたのが、このメーコック・ビラというゲストハウス(この宿との出会いは古く、1983年からの付き合いとなる)だ。
客の増加を見込んで、ちょうどその頃に増築された東棟が我が長期滞在の部屋となっていた。水シャワーのみだが、その分100バーツ(当時)と割安だった。
部屋の広さは8畳に足りないくらいだが、2~3ヶ月一人でいても飽きないように小物を揃えてある。まずは小型の液晶テレビ。日本とタイは電波方式が違うので、秋葉原で海外用を買ってきた。一時帰国ということで、パスポートを見せたら、日本人なのに免税価格が適用された。そしてラジカセ。NHKの短波放送を聴くのは、欠かせない朝の日課だ。もちろん、お気に入りのカセットも用意しておく。文庫本は、読み終わったら宿に寄贈していく。オーナーは勿論、他の日本人宿泊客も喜んで くれる。そして湯沸かし器とマグカップは、お茶とコーヒーを楽しむためだ。
地方の宿に泊まると、蟻と戦わなければならないときがある。特に、前の宿泊者が部屋で甘い物など食べていたら、その部屋はもう確実に蟻の標的になっていることだろう。そんな部屋で買い置きの食料など置いておいたらひとたまりもない。そこで、食料を置く棚の脚を水をはった容器に入れておく。 こうしておけば、貴重な食料を蟻から守ることができるのだ。
惣菜屋台で買ってきて食事をするために、最小限の食器もあると便利だ。外食も良いが、部屋で食べるのもまた別な良さがある。
あまり使わないものや貴重品は、備え付けの木箱に鍵をかけてしまっておけば安心だ。
一枚の写真に納まってしまう、この程度の身の回り品で、とても豊かなゲストハウス生活を楽しむことができた。
チェンラーイ、2000年。

2014年10月12日日曜日

タイからの輸入品が通る


タチレクで売られている物は、タイから運び込まれたものが圧倒的に多い。
輸送コストを抑えるためか、荷台が傾くほどたくさん積まれている。これで倒れたりしないのかと心配になるが、案の定、路上に荷物を撒き散らしてしまった現場を見たこともある。
タチレク、2014年。

2014年10月11日土曜日

タチレクのCD屋


タチレク国境近くには、コピーCDが溢れかえっている。音楽CD、カラオケVCD、映画DVDなど、どれも格安だ。根気良く探せば、思いがけない掘り出し物に出会ったりもする。ただし、ジャンル分けなどされてなく滅茶苦茶に陳列されているので、欲しい物を探しだすには、相当な根気がいる。
タチレク、2014年。